文亀3年(1503)の草庵が始まりだという、日蓮宗の長松山 林昌寺
 山門写真  寺伝によれば本門寺の僧、福寿院日たい上人が、文亀3年(1503)に草庵を結んだのが始まりと言う(「池上町史」昭和7年町史編纂会刊)。

  第二次世界大戦で本堂が焼夷弾により炎上、全ての記録を焼失した。池上町史前書きでは、当時の三十七世加藤文淵住職から多くの資料を提供して頂いたとの記述を見ると、この地の歴史資料が失われたことは大変残念である。左は林昌寺山門(2001年撮影)
 
本堂写真
本堂 戦災により消失したが昭和32年(1957)に再建された本堂。 山門彫刻写真
山門彫刻写真

山門は明治35年(1902)建築、山門の梁上には、登る朝日に御題目を
唱える日蓮聖人のお姿が彫刻されている。

石経塚写真 

山門階段左横にある石経塚〉
経塚は末法思想から弥勒出世の世まで仏教経典を伝える目的で造られたものです、地中には石で作られた教典が埋められたと考えられています。写真の石経塚は、明和8年(1771)10月に根方近在の報恩講中により日蓮上人500年遠忌を記念して造立されたものです。高さは2.1メートルほどである

 

「池上町史」昭和7年(1932) 町史編纂会刊より

 『長松山林昌寺 二十四世日淵上人は、高徳の誉れ高く明治宗教界に重きをなし、霊魂閣を創建して日蓮聖人遺文全集の編纂に半生の努力を傾注し日蓮主義弘布の先駆をなしたるは宗教史に輝く事跡なり、三十五世加藤日源師は日淵の息、大正10年(1921)宗命により英国に留学す、宗門留学の嚆矢なり、現在加藤文淵師はその舎弟にして、父兄二代の後を受け、日蓮主義伝道に盡碎(ジンサイ)し、日蓮聖人註法華経の他膨大なる日蓮聖人遺文全集の講義を刊行し、その完璧をなす…』とある。

 また『当寺年中行事中十月二十七日の御会式は昼間は御供養と法要を営み、夜間は法要と学生の講演あり、余興として福引等の催物あり、池上結社、小池講中、雪ケ谷、嶺、久が原、徳持、池上、堤方の各村落より萬燈の行列あり古来よりその盛況を唄はる』とある。


「大森区史」昭和14年(1939) 東京市大森区役所刊より
 『長松山林昌寺は日蓮上人の直流の日眞( にっしん)上人の開山にかかり、開基六百年を経る古刹であり、往古より本門寺末に属しその格式四園を壓し、木鼓誦唱一堂に集まるの観を呈したが、南北朝以来の兵火に寺宝古記録等は焼尽しつくしたといわれる』と記載されている。
また、『二十四世日淵上人は高徳の誉れ高く明治宗教界に重きをなし、霊魂閣を創建して日蓮聖人遺文全集の編纂に半生の努力を傾注し、日蓮主義弘布の先駆をなしたのは宗門史に輝く事跡である。三十五世加藤日源師は、大正10年宗命により英国に留学した、宗門留学の嚆矢である。(中略)昔は春季前方田園耕地に蓮花草の花咲き、秋は錦風の秋月夜景尢も好く、文人墨客の杖を曳くもの多く夏は暑を避け、秋風を持って帰山する僧侶も多かったと云う。』とその情景を伝えている。

 
青面金剛像

角柱尖塔の髭題目を彫った文字塔である。
  延宝5年(1677)、上谷戸庚申講中の銘があり、元は上池台5丁目10番の路傍にあったと思われる。しかし、大田区の資料では年代が享保8年(1723) となっており年代が違いすぎる。別物かどうか確認が必要である。(墓地内)

林昌寺は明治時代の神仏分離まで、隣の子安八幡神社の別当をしていたが分離された。かつては猿坂付近にも林昌寺の墓地域があり、広大な寺域を持つ寺であったらしい。

林昌寺前の道は、おそらく江戸時代以前からの古道である。この道は「目黒道」と言われ、池上本門寺総門から始まり、本行寺参道前、第2京浜国道をすぎる。しばらく歩くと右側が林昌寺である。なお歩くと雪が谷尾根道や中原街道をすぎ目黒不動まで行けた古道である。
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「大雄殿」・露木惠子画
天井画の紹介があります。
林昌寺・住所 仲池上1-14-17

 
大雄殿1階