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●田無街道とは…… 田無街道とは耳慣れない道である、現在ではこの名前を聞いても分からない人が多いと思われる。昔の道路名は行先地(目的地)の名前を付けた。そこで私はあえて分かりやすい古い道路名を使うことにした。現在は通称「荏原町へのバス通り」と言われる。 ●「入新井町史」の記述から…… 池上道から臼田坂を登り、荏原町、目黒、駒沢、田無まで繋がっていた嶺道である。古い地図では「目黒より池上道」となっている。地元では「田無街道」や「澤田道」とも言われたらしい。池上道と中原街道をつなぐ古い道で、東京府の府道(56号線)となっていた。荏原町あたりから中原街道につながり、駒沢、世田谷を経て田無に至る。 「入新井町史」昭和2年(1927) 入新井町史編纂部刊 ●「大田区史」の記述から……大田区史では、田無街道を「大森田無線」と紹介。 『大森美原通りを起点として池上通りへ、池上通りをさらに西へ、現大田区役所前(現在、大田文化の森)より臼田坂を登って進み、現在の第二京浜国道を横切り、荏原町駅手前の都106号大井玉川線(品川道)に出る。この五叉道を北西に曲がり、目黒区に抜け、世田谷区の東部に進むというルートであった。「大森田無線は東京郊外の数少ない環状道路の役割を持っていた」と紹介している。「大田区史」大田区史編さん委員会編集 大田区発行 平成4年(1992) ●上の写真は荏原町へのバス通り(田無街道)(大森田無線)入り口である。前の道は大森からのバス通り、右は大森方向、左は池上方向である。入り口から20メートルほどで六郷用水跡を横切る。 |
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●坂の方向から池上バス道を見る。奥のビルは元大田区役所である。現在は大田文化の森情報館である。
写真2枚は、六郷用水に架けられていた橋のプレート「美皿橋」(昭和10年10月)である。今は埋められて道路となっている六郷用水跡。大森方向である。反対は赤十字病院前の道である。
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●写真は平間街道(旧池上道)交差点、左に行くと 春日神社前をすぎて環七を越えて池上バス通りに ぶつかる。(臼田坂方向より見る) |
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●左写真は臼田坂を見たところ 江戸時代、この道は泥道であり登るのに大変苦労したようだ。大正7〜8年頃、荷車に積まれた6表の塩俵(一つの重さは約30キログラム)を2回に分けて運んだという。江戸時代の道幅は2間(3.6メートルほど)であったが、昭和8年(1933)に倍の4間幅になった。この時からバスが開通したと言われる。おそらく簡易舗装であったのかもしれないが詳細不明、おそらく昭和20年(1945)代前半には簡易舗装の道路になったのは確実かも知れない。耕地整理の結果であろう。 坂は緩やかに右カーブをして途中から左カーブとなり、全体ではS字カーブになっている。大正期頃、坂上には「でかさんの店」と言う茶店があった。周りには今のように家は無かったと言われる。 ● 写真の信号左の道を曲がると「川端龍子記念館」に出る。その先は桜並木になり第二京浜国道までつながる。 臼田坂の名前は、坂の途中に臼田姓が多く住んでいた事によると言われている。現在もこの辺りには臼田姓の人々が多い。臼田氏の 総本家は臼田文博家で古くは馬込を支配していたという。先祖は信濃国佐久郡臼田邑であると言われる。(『史話22号』大田区発行 22号内「大田区の坂・2」を参照。) |
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古地図に載る朝日観音堂は、源頼朝が髪の中に守護仏として入れていたという小さな十一面観音像を祀った御堂と言われる。今はこの像はない、御堂は朝日の昇る方向であったが、今は西向きになっている。臼田坂の途中右側にある朝日観音堂 住所・南馬込3-32、目次扉に戻る |
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