道々橋村の鎮守様、久が原台地の端に鎮座する道々橋八幡神社
神社写真
道々橋神社写真

道々橋神社前の道はかなりの古道で「鵜ノ木・新田道」や「丸子道」と言われた、左に行くと「筏道」と合流して光明寺、丸子の渡しに行き着く。右に行くと急な坂を下り、呑川の「道々橋」を渡り二股道に出る。二股の左は嶺道で久品仏に行く嶺道で都立荏原病院前のバス通りである。右は「猿坂」を登り夫婦坂を越えて荏原町、中原街道に行ける「目黒道(池上道)」である。
 池上方向に行くと「子安八幡神社」「林昌寺」を経て第二京浜国道(国道1号線)に出る。渡って行くと本門寺総門に行き着く、ここが「目黒道」の起点である。江戸からある古い脇道である。江戸時代には幕府領であり、東海道品川宿の助郷(すけごう)や品川東海寺の火消し人足を負担していた

道々橋村は、『池上村の小名宿の辺り、および本門寺の背後、馬込村内に三カ所の飛地がある』(大森区史)とあり、本門寺背後とは「道々女木」のことであるらしい、おそらく塚上にあった観音像が第二京浜国道工事で移動して、西馬込駅西口近くで「夢告観音」として奉安されている。

下の写真は社殿、昭和35年(1960)の建造である。道々橋八幡神社は村の鎮守として正保年間(1644-47)の創建、狛犬の首に注連飾り(しめかざり)をかけている。

狛犬写真1
狛犬写真台座2
写真は、子取りの阿像である。 左右とも
「子取りの阿像」である。左右の狛犬が子供を抱えているのは大田区でよく見る光景である。
狛犬写真3
狛犬写真台座

台座の「願主」刻印について

左台座(写真上)には願主、醍醐綱郎。右台座には、後醍醐平吉、醍醐幸吉とある、奉納者の名前で奉納は明治30年(1897)9月である(右写真)

石工と思われる名前が、芝三田の堀部忠蔵(左台座)とある。道々橋村が江戸時代から芝「増上寺」の領地となっていたことから、三田の大木戸前、伊皿子町の石工たちと付き合いがあったのではないかと推理している。そのためか、しっかりした美しい狛犬である。
狛犬蛇口
写真は、阿像の後ろ姿と台座である。台座には明治30年(1897)の刻印がある。また「子取りの阿像」で二匹の子供を抱いている。おもしろいことに一匹は仰向け、一匹は潜り込んでお尻をこちらに向けている。左の吽像も「子取りの吽像」で同じく二匹の子供をもつ。全体にバランスの取れた狛犬である。手水舎の狛犬、口から水が出る。住所 久が原1-7-9