将監塚にあった夢告観音は耕地整理により流転した


都営地下鉄西馬込駅西口を出て、大田区立郷土博物館に向かう左側に「夢告観音」はある。この場所は、馬込地区の耕地整理組合の事務所があった。
耕地整理事業は私的組合であり行政に記録がなく、詳細ははっきりしない。   背後の由来を読むと時代に翻弄された観音様の様子がわかる。この「夢告観音」の伝承を探ってみた、像の台座を見ることが出来ないので文献資料と古地図から検証してみた。


《観音様が始めに鎮座されていた場所はどこか……文献資料から探る》


夢告観音を移動させた河原源一氏の話……大森区史(1939年)の記載(原資料)
 南馬込5丁目にある「夢告観音」がハッキリと記載された資料は、東京府時代の「大森区史」〔昭和14年(1939)2月12日 東京市大森区役所発行〕である。これが最初で唯一の聞き書きの元資料である、「第二節 名所伝説その他」に掲載されている、短いので下記に全文を紹介する。

『西一丁目から塚越に至中間に昔無明塚があった。村人はそれを観音塚と呼んだ。然し現在は跡方も認められない程変わって道路になってしまった。更に付近に石の観音像が奉安されている。(将監谷に居住した岡田将監なる行者の建立といふ)元禄前後の作でもあろうか、古いこの石像は塚上に置かれていたが、明治年間取り拂って河原氏一門の墓地へ収容すると、一夜河原源六氏の夢枕に立ち、元の所に安置せよと告げたので、村民畏怖して現在の地に移したものだと。然し今は道路に當つたので、十数間北東に寄せられて巌かに祀られている。』大森区史(1939年)


この資料で確認できることは何か
 1.観音像は明治年間に河原氏の墓地(現在の閻魔堂裏の墓地)に移されたが、夢のお告げに従い元の位置に戻された。それ以後、観音像は「夢告観音」と呼ばれ庶民の信仰を集めた。

 2.「然し今は道路に當つたので……」とは、耕地整理事業の道路工事のこと、それにより北東方向に移された。時期は昭和初年から昭和13年までの間である。

 
 3.無明塚(観音塚)とはどこか
   記載から考えられる旧番地西馬込一丁目は、現在の南馬込4丁目「北向稲荷」と「善照寺」付近第二京浜に向かうあたりである。万福寺から「おいはぎ坂」を下り、内川に架かる牛洗戸橋を渡り、塚越に行く途中のどこかに無明塚
(観音塚)があった。(北向稲荷から塚越に向かう細道である)

(注) この地区の耕地整理事業は「馬込第三耕地整理組合」が、昭和6年(1931)12月22日に始め、昭和27年(1952)に完了した、のちに解散している。組合長は河原久輝氏、副組合長として河原源一氏ほか4名である。上記「大森区史」の記述は河原源一氏に取材した事を元にしている。(参照「大田区史」)


《1.夢で元に戻せと言われ、戻した元の場所はどこか……》

古地図から元の安置場所(無明塚)を推理する…イラストを参照
『荏原郡全図』の馬込村を見ると将監谷(地図白い部分)には現在のような道はなく、谷周りを回る道だけである。また将監谷上に塚があった形跡もない。将監谷は「上臺(うえだい)、塚越、桐ヶ谷」の台地に囲まれたぬかるんだ沼に近い土地のようである。現在の道が造られるのは、昭和初期の耕地整理事業(昭和6年から昭和27年まで)が行われてからである。それから導かれる結論として、将監谷内に無明塚はなかったと考える。

将監谷以外に可能性のあるのはどこか、周りの台地の裾野あたりである。「大森区史」で『今は道路に當つたので、十数間北東に寄せ……』の記述は、耕地整理の新道工事のことを示すと考える。何故なら「大森区史」の編集段階は昭和12年(1937)、第二京浜国道は昭和11年(1636)から建設が始まったが、その前の耕地整理が移動の第一原因と考える。

戻した場所は、塚越明神のある塚上と思われる、おそらく池上本門寺に近い場所であろう。私はこの場所を「道々女木(どどめき)」と呼ばれた「道々橋」の飛び地で無明塚と呼ばれた所ではないか。

(注)『荏原郡全図』〔明治19年(1886)4月〕地図は、当時の荏原郡役所所蔵印があり、明治中期の大田区付近を表した貴重なもので信頼できる。(大田区立郷土博物館蔵)。


別の資料からも、元の安置場所(無明塚)を推理する……
 現在の「夢告観音」位置から反対方向(南東)を探ると、「都営地下鉄車両基地」と第二京浜国道のあたりが有力である。このあたりだと『西一丁目(将監谷)から塚越に至中間……』に符合する。また、この地図からも「おいはぎ坂の道」が塚越に行ける古い道であったことは確認できる。この道の延長線上の付近どこかに無明塚があり「夢告観音」は立っていた。

無明塚の第二京浜国道より、池上本門寺裏側は 全部が将監谷と思っていたが、左側(第二京浜国道側)の狭い範囲(池上本門寺に登る細い道から左)が「道々女木」と地名表示がある、調べるとこの地は「道々橋村」の飛地であることがわかった。(下の地図参照)

「道々女木(どどめき)」はどこか……
新編武蔵風土記』(明治45年(1912)発行にも「道々橋村には三カ所の飛び地がある」と記載されている、その中の「池上本門寺の後ろの方なる耕地にあり」というのが「道々女木」であろう。

(注)『大東京新区町名地番表』(東京市役所編纂 市政人社刊 昭和7年)(大田区立郷土博物館蔵)



推理1.……稲荷(西二稲荷)のあった場所が観音塚(無明塚)か……
 塚越台地の裾野、「閻魔堂」(西馬込2丁目-32)の下あたりに、神社の鳥居マークがあり稲荷社(神社)と書かれている。(大田区の文化財 考古学から見た大田区 付図ー3番に位置記載あり)

 移転した「西二稲荷」の旧位置は、第二京浜国道・馬込中学校信号脇にある「馬込タイヤショップ」「岸本興業」あたりである。
 昭和38年(1963)までここに「西二稲荷」があった、同年8月に東京都交通局より地下鉄基地建設を造るので立ち退きを要請され、翌年に現在地に移動した。元は小高い塚であったが取り崩して平地にした、この塚が全体が無明塚であったと考える。


推理2.……大森区史の記載「元に戻せ……」と観音様が命じたのは何故か
 この西二稲荷神社と同じ塚上に「夢告観音」は立っていたに違いない。おそらく「道々女木」飛び地の守り観音菩薩であり、そのため夢枕に立ち『元の所に安置せよ……』告げたのは、 観音菩薩(道々女木の守り)の役割を果たしたい一念であったと考えると、ある意味納得できる。もちろん可能性のひとつだが。


結論、夢告観音は元の場所・無明塚に戻り、大正・昭和と平穏に過ごされた。


 《予定道路にあたって移動した所はどこか、推理する……》

仮説ー1、耕地整理の道路建設で移動した(一回目の移動)
 
元の位置に帰った「夢告観音」をおそった悲劇は、昭和6年(1931)に始まった耕地整理事業で、予定道の真上に位置していたことである。計画では馬込区民センターの坂道が第二京浜国道につながる予定であった。この道路上に「夢告観音」はあった。ちょうど
「稲荷(西二稲荷)神社」の後ろあたりに位置していた夢告観音は、「ハマヨ地蔵」の位置に移動した。

(注)多数の地図 (大田区の文化財 第24集 地図で見る大田区ー1)では、閻魔堂の位置は同じだが、ただひとつ、「大森区詳細図」昭和11年(1936) 東京地形社発行の地図は、他の地図と違い将監谷の耕地整理をする予定部分が点線で描かれている、下記イラスト地図の中央赤線道路である。


仮説ー2、第二京浜国道建設のため二度目の移動をした

 上記の理由で移動したが、現在地(南馬込5-31-21)ではなく、別の位置に移動したとも考えられる。その仮説から近くを探してみると「目黒・池上道」と嶺道の分かれる場所に「卍」のマークがある、他の地図にこのマークはない。これが正しいとすると、夢告観音は昭和9年(1934)に一応の完成を見た馬込第三耕地整理組合の道路工事(将監谷)で、予定道路上からわずかに離れたところに移動したが、その場所がまたも、第二京浜国道(昭和11年)建設予定の真上に位置したため、何年かのちに再度移動して、現在の所(南馬込5-31-21)に移動したとも考えられる。
 
  稲荷社の鳥居のマークでなく、仏教の「卍」のマークであると言うことが「観音菩薩像」を証明しているのかもしれない。


昭和37年頃の梅田小学校を中心にした
南馬込付近 拡大表示

一回目の移動

二回目の移動

「昭和20年頃の大田区 地図」(昭和22年 地理調査所)
 昭和20年頃の地図でも、馬込坂上から 池上本門寺裏門付近までの第二京浜国道は完成していない。その前後の道は、従来の道を拡張工事するだけで済んだので完成している。昭和13年(1938)に多摩川大橋の建設を始めた、ここまで第二京浜国道は、ほぼ完成していると考えて良い。すると夢告観音は、昭和9年頃、再度移動した位置から昭和13年までの4年間のどこかで、現在地(南馬込5-30-21)に移動したとの仮説が成り立つ。


仮説ー2を証明する事実があった。
 2007年4月30日、仮説ー2の目黒道(第二池上道)入り口に確認のため行ったところ、何度も通りすぎているのに知らなかった驚くべき事実があった。

 企業看板のうしろに堂宇があったのである。次のページに写真と共に説明する。まったくの素人の推理だが、夢告観音はここにあったのだが、何らかの理由により現在地(南馬込5-30-21)に移動した。その際か、もっと前かは定かでないが、夢告観音の蓮華部と下の台座は切り離され、台座は残され、本体の観音様は別の台座に載せられて祀られることになった。

 最初に夢告観音を見たとき全体のバランスが悪いと感じたのは、別の台座に載せられていたためである。大田区の資料に拠れば、「丸彫りの聖観音立像は、大田区内に数例しかないのではないか」とのこと、資料に山王一丁目の「円能寺」に江戸中期の聖観音立像がある、その中の一体が夢告観音とそっくりである。



上記「大森区史」の池上本門寺への参拝道について
 この道は、 南品川あたりから木原山(山王)の嶺道か裾野を周り、北野神社の道を登り、富士講碑をすぎて「おいはぎ坂」を下り将監谷に出る。ここから平らな道になり将監谷を右から迂回するように「夢告観音」あたりに出る。おそらくこのあたりに集合して、お茶やで一息入れた後、一気に池上本門寺裏側を目指したのではないか。
 現在、その道は梅田小学校前の桐里への坂道に変わったが、この道と平行するように都営地下鉄基地の中央を突っ切る細い坂道があった。右側に「夢告観音」を見ながら本門寺をめざした。池上本門寺五重塔下あたりに出ることが出来た。このルートは南品川から池上本門寺を目指す裏道(近道)であったと考える。


イラスト地図
番号-1 夢告観音の現在位置(南馬込5-30-21)
番号-2 閻魔堂(えんまどう)位置
番号-3 夢告観音の移動した位置・現在はハマヨ地蔵
白丸は都営浅草線西馬込駅 (五反田より出入り口)

『荏原郡全図』〔明治19年(1886)4月〕地図には、上臺(かみだい)から追いはぎ坂を下り裾野に沿って道が造られ、番号一番の所に集合、塚越の裾野の道を、番号三番右あたりから真っ直ぐに池上本門寺に登る道があった。現在の梅田小学校わき、桐里の坂道と平行して昔の道はあった、池上の「弁天池」右側に出ることが出来たのである。
夢告観音写真
←●
左の写真は、夢告観音の蓮座より上の部分
 首の部分は補修してある、全体の劣化、剥落がひどく、お顔はよくわからない。全体にほっそりしており、腰の所はふくよかである。安産祈願の観音様であったのかもしれない。年代等は不明。大田区の資料では、丸彫りの地蔵・観音像は五体しかなく、夢告観音は記載されていない。
首などの傷は 関東大震災(大正12年)で落ちたという説があるが、にわかには信じられない。  
円能寺の聖観音菩薩を見る


明治年間になって何故、夢告観音は取り払われたのか……
 
  取り払った理由は、明治に行われた「神仏分離令」慶応4年(1868)3月13日の影響があったのではないかと考える。大田区では過激な廃仏毀釈はなかったらしいが、それでも、民間信仰の修験道等は抑圧禁止された。夢告観音の観音堂も仏教の民間信仰と見られるおそれから、そばにあった河原氏の墓地に移動させたのではないか、これは推測による私見である。

住所 南馬込5-30-21 都営地下鉄西馬込駅西口近く
扉に戻る    次のページに(ハマヨ地蔵)