馬込村、富士講縦川講が立てた常夜灯灯籠と富士講碑
石碑写真
冨士講について……   富士山を天地の中心、国の平安や家内・衆生を祈る民間信仰は、長谷川角行が始め、享保年間には伊東伊兵衛〔食行身禄(じぎょうみろく)として知られる〕が特異な布教で爆発的な人気を受け、富士講という講をつくりあげた。その人気の勢いに幕府も禁止令を出したくらいである。
  大田区でも多摩川沿いや羽田近辺で数多くの富士講が作られた。記念の石碑(写真左)は、明治20年(1887)に建てられた。上部に「タテカタ元講」の講紋が刻まれ、その下には扶桑教の「太祖参神」の銘文がある。
富士講燈兼道しるべ
  写真の灯籠は大田区最古のものであり、文政7年(1824)、旧馬込村小字東に常夜灯兼道しるべを兼ねて建てられたものである。
笠石銘文ー右・金毘羅大権現、正面・富士仙元大権現、左・石尊大権現、背面・秋葉山大権現。文政7年(1824)9月 石工・清三郎、道しるべ(台石右銘文) 北・品川道、馬込村、南・池上道、高さ・230センチほど。


「東のお灯籠」について……
 この灯籠は富士信仰のために建てられたらしい、竿石(灯籠の柱部分)には富士山を菩薩とした尊称「富士仙元大菩薩」、台座には講紋を刻んでいる。他の三面(竿石)には、「石尊大権現」(相模の大山の神格化)、「秋葉山大権現」、「金毘羅大権現」の三神の神号が刻まれている。明治の神仏分離の影響を受け「仙元大菩薩」の尊称が刻まれた石碑が少なくなることから、この灯籠は貴重なものである。台座には150名を越える馬込村の人名が刻まれています。


 
大田区の富士講は温和なものであり、講で集まり富士山に登り参拝した後、大山、江ノ島、金沢八景などを巡る信仰と遊びを兼ねたものであると思われる。また、月に一度ほど集まり経文などを唱えたと言います。大田区には富士講碑が12基ある。神社境内に5基、寺院境内に2基、そして路傍の「東のお灯籠」1基である。

「タテカワ講」(縦川講)は川崎宿の西川伊右衛門が開いた。大田区の富士講はこの講の枝講である、例えると親と子の関係です。
 
   
灯籠写真
写真(上)左に300メートルほど行くと池上道から臼田坂を登り、荏原町につながる嶺道・田無坂道(澤田街道とも言われたらしい)に行き当たる。写真右に行くと坂になり北野神社をすぎ、木原山(現山王一帯)に出る、左山裾を回ると南品川に行ける。江戸時代からある古い道である。写真の坂を下ると環七に行き当たる。

写真は道に立てられた唯一のものである(大田区文化財)。村人には「東のお灯籠」と親しまれ、富士登山にはここに集まり出立したという。住所 大田区南馬込2丁目-25
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