那須与一伝説、戦時中は武運長久祈願者が参拝した太田神社

太田神社の鳥居
 石段の左には道標があり、昔は長勝寺の門前道と池上旧道との交差点右角にあったらしい。近くに桐里の地名もあり、この付近が桐の産地だったことが分かる。


太田神社について……
 江戸幕府開闢以前より、沖行く魚船も目印にした大きな松があったと言われる太田神社。古くから市野倉と言われた武蔵野台地にあり、ここから見る眺望はすばらしかったと言われる、万葉集に歌われた「荒磯」とは、この付近の風景を歌ったものであるとの説もある。

神社の由緒」によれば「古くは八幡社といわれ、江戸時代の創建と言われる、おそらく350年前ではないかと記載されている。明治初期に「太田神社」と改名した。
 伝説によれば鎌倉時代の弓の名手「那須与一宗高」が、当社の守本尊を身につけて戦いに挑んだという。そのため「明治から武運長久の神社としてお参りされた」と言われた、御社の裏山は那須原と呼ばれていたらしい。那須与一伝説は日本各地にある。


田神社の名は小田原北条の家来太田新六郎から名付けられたという。祭神は誉田別命(応仁天皇)、竈神社、稲荷神社、貴船神社が合祀されている。また、この神社は池上本門寺の東を守る神とも言われている。

大田区の旧池上道(平間街道)沿いの伝説……
    旧池上道には、鎌倉時代との結びつきを示す伝説が多い、三輪厳島神社の源義経伝説。春日神社、熊野神社の藤原恒望伝説、浅間神社(多摩川浅間神社)、源頼朝の妻の伝説。八幡神社(千束八幡神社)は源家の氏神として尊崇され旗揚げ八幡とも言われている。また、六郷神社は源頼義、義家の先勝祈願がなった報賽により立てられたという。
 これらの伝説は鎌倉から江戸につながる「鎌倉街道下ノ道」として「平間の渡し」から多摩川を渡り、中原街道で江戸へ、池上道(相州街道)で品川へ移動したのである。鎌倉幕府は多摩川沿いを防御ラインとして重要視していたのである。その証拠として「神霊矢口渡」に見られる新田義興の謀殺伝説があるのである。池上道から鳥居が見える。


狛犬は明治34年(1901)奉納、左右とも子供を抱いた雌の狛犬らしく、口を開けた阿像(あぞう)である、左右とも阿像とは珍しい。
同神社の稲荷社の神使(狐)戦災のためか耳がかけている。下は鞠に足を載せる雄の狐。左の写真は足下に子供のいる雌の狐。
住所 大田区中央6丁目3-24 
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