甦った呑川上流付近、木のトンネルに野鳥が泳ぐ川…呑川ー1


呑川の成立……呑川は13万年前の古多摩川である
  今から13万年前の最終氷河期に海底であった淀橋台と荏原台が隆起を始めた。それより古多摩川が隆起する台地を削り始めた。古多摩川は、現在の「井の頭公園」あたりを流れていたと思われる。その川筋に目黒川の谷が刻まれた。その後、古多摩川は現在の多摩川方向へ移動を開始した、最初に刻んだのが呑川の谷である。また、その時に削り残されたのが田園調布の台地である。
参考「地下水の世界」榧根 勇著 NHKブックス 1992年発行)

呑川は大田区を南北に縦貫している全長9キロ(大田区内)の二級河川である。江戸以前には「深沢流れ」と言われたらしいが、江戸時代になり「呑川」と称された。水源は世田谷区桜新町付近であるが、現在は東京工業大学辺りまで暗渠化されている。

呑川は小さな川で蛇行しており、灌漑用水として使われたが水量は天候に大きく左右され、水争いが絶えなかった。その解決のため江戸時代に六郷用水が造られた。

  昭和初期頃より宅地化が進むと、呑川は農業用水から排水路へと役割が変化していった。蛇行している川は水害の被害が頻発、また悪臭が発生して住民から呑川改修の要望が出された。昭和6年(1917)から5年間の計画で、当時の東京府により河口から夫婦橋(蒲田)までの工事が開始された、完成は昭和10年(1935)である。それは夫婦橋より蛇行している川筋を、直線で海に注ぐ新河川(新呑川)開削の工事である。川幅は27メートル、深さは4.54メートルになり、海から船が入ることが可能になった、二つの協同荷楊場が夫婦橋と呑川新橋に造られた。旧呑川の共同荷揚場跡は現在記念公園となっている。

呑川の改修工事
 昭和24年(1949)までに合計8回の改修が行われ、それ以後も改修は現在まで継続している。現在、旧呑川は暗渠化され緑地公園(緑道)となっている。蒲田の工学院前で六郷用水の南堀と北堀が合流していた。(大きく蛇行が始まる双流橋付近)参考『大田区史』昭和26年(1951)発行 。


石橋供養塔写真石橋供養塔写真
石橋供養塔
 江戸時代、安永3年(1774)に呑川に架けられた石橋が竣工した記念碑。このような竣工だけの供養塔は珍しい。中原街道石川橋のたもと。
野鳥写真中原街道が呑川を渡る所は石川橋、昔は川底も浅く汚かったが、現在は写真のように綺麗になり野鳥も泳いでいる。上の写真は上流部分を見たところ、水量は少ないが川底はコンクリート造りになり流れが良くなった。これは川の役割を排水能力に重点を置いたためと思われる。 水質の向上により鴨などの鳥も気持ちよさそうに泳ぐ姿が見られる。呑川には常に鴨などの水鳥達や、鯉や亀などが見られる。
 2013年に日本や世界の気候が変動した。特にゲリラ豪雨が頻発し、一時間の降雨量が50ミリを越えたり、数時間に渡り数百ミリを越えることもある。このような雨が呑川付近に降ると確実に水量が増加して溢れるであろう。また、満潮になると海水面が上がり、日本工学院専門学校(西蒲田5丁目)まで海水が遡上するため、呑川が東京湾に流れなくなる。
(住所 石川町2-28-1)
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