馬に関する地名駒込、天沼(乗潴)などがあり、古代から開けた場所である |
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↑高橋松亭(弘明)「都南八景の内」馬込 渡邊版画店 大正11年(1922)4月 |
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●近世(江戸時代)の荏原郡馬込村の様子……
江戸時代、馬籠地区は武蔵国 荏原郡馬込領に属し、九十九谷があり古くからの放牧地だった、年貢を納めるのは、代官(鷹狩りなどの猟地)・旗本領(木原)・増上寺寺領の三者であり相給地となっていた。江戸から明治初年までは、堂寺・松原・北久保・久保・東・平張・子宿・中井・上台・塚越・中丸・根古屋(谷)・宮下・寺郷の14の字があった。明治・大正生まれの古い人がいなくなり、時代の流れにより古い地名も消えていく。
天沼(乗潴)の地名から、『続日本記』に見られる乗潴(あまぬま)駅が想定された、杉並区にあると考える時もあったが、近年になり疑問があることから、想定されたのが馬込村内小字天沼である。ここに乗潴駅があったとする説が有力に成りつつある。これからの研究により、詳しい解明されることがまたれる。
●明治になると目まぐるしく変化した。始めは武蔵県知事・品川県・東京府である。 明治7年(1874)には、第7大区5小区に編入された。 明治11年(1878)の郡区編成により東京府荏原郡馬込村となる。 昭和7年(1932)10月1日からは町制が変化した、東京市大森区の一区画として馬込町東1〜4丁目、馬込西1〜4丁目、北千束・南千束となった。当時、千束は馬込の飛び地であった。この表示は昭和40年(1965)まで続いた。 以後、東馬込・西馬込・南馬込・北馬込・中馬込・北千束・南千束と個性のない表示となり現在まで続いている。古い馬込地区
上記の版画のように、静かな農村地帯であった馬込村が変化したのは、大正12年(1923)の関東大震災直後からである。焼け出された人達が大森・蒲田地区に移り住んだ。以後、人口は10年で12倍の23,025人となった。昭和10年(1935)の統計では304,036人と大幅に増加した。
●増上寺寺領の影響は今日の我々が考える以上に、精神的な面で大きかったと考える。江戸時代の馬込村を支配した増上寺は浄土宗本山であり大きな影響を与えたと考える。馬込村に日蓮宗の寺がないのは、増上寺寺領
であったことが一因かもしれない。
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● 写真は、大正10年(1921)代初期頃の西馬込風景である。
馬込の特産品「馬込半白節成胡瓜」の改良と原種採種に力を注いだ河原梅次郎氏の胡瓜畑である。正確な場所は特定できないが、林の後ろ側左に第二京浜国道が造られたのであろうと考えている。(写真 河原雅春氏所蔵)拡大表示 馬込半白節成胡瓜
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●耕地整理による馬込村の都市化がはじまる。……
耕地整理は馬込地区の基礎を造ったと私は考える。内川沿いの泥地(摘み田・ヤト田)は埋めたてられ畑となり、大谷・将監谷には幅2車線の道路が造られ、住宅地としてのインフラが整備された。この時に、いま見られるほぼ直線の道路が縦横に巡らされた。私見であるが耕地整理がされなかった地区は、消防車さえ進入できない住宅密集地として今も残されている。開発当時は無駄な道路と写ったかも知れないが、現在の基礎を造ったと言える。耕地整理が遅れた西部の宮下・塚越・中丸あたりは昭和35年(1960)頃までヤト田(谷戸田)が散在していた。馬込は田無街道(荏原へ向かうバス通り)を中心に都市化していったのである。
●私が馬込に来た昭和29年(1954)頃は、父の話によると貨物線である品鶴線(ひんかくせん)が、近い将来には旅客線になると不動産屋に言われ、土地を購入したという。残念ながら、現実にはならず、それから都営浅草線(1号線)が出来るまでは交通の便が悪かった。大森や池上にも徒歩で30分ほど掛かり、陸の孤島であった。児童の増加(団塊の世代)により、昭和29年(1954)に梅田小学校が設立された。それまで短い間であったが、子供は馬込小学校で午前と午後の2部授業であった。現在、その梅田小学校は大田区でも有数の児童数を誇る学校となった。
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● 塚越の風景…高橋松亭(弘明)
上の2枚の版画は、高橋松亭(弘明)の描く塚越明神(現・西二稲荷)である。
塚越明神(現・西二稲荷社)は現在の東京都交通局馬込車両基地(都営地下鉄車両基地)の第二京浜国道際にあった稲荷社である。同基地建設のため移転した。この場所は夕景の版画に見られるように、手前の南側は将監谷と言われた泥沼地であった。
もう一枚(左)は朝方に塚越から将監谷に向かうところを描いたものであろう。現在、この林は東京都交通局馬込検車場の敷地になり、大江戸線を含む都交通局馬込検車場である。 |
●上は高橋松亭(弘明)の新作版画「馬込の朝霧」明治42年(1909)から大正12年(1937) |
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●大井郷と馬込について……
大井駅は律令制の衰退と共に無くなり大井郷になった。大井郷は近世江戸の大井村、不入斗、新井宿の3村を含む範囲を示す。大井郷の西側は馬込村であった。
●馬込村は区の北東部にあり、東を新井宿村、南は桐里村・池上村、西は池上村、北は大井村・上蛇窪村・中延村に囲まれている。古くから馬と共に開けたところらしく、「駒込・馬篭」などとも言われた。馬込には二つの台地があり、高低差が激しく、馬込九十九谷と称された。その谷底に馬が放牧されていたのかもしれない。馬込九十九谷とは田無街道の臼田坂を登り、バス道りの左右に広がる谷が主体である。谷は10〜16パーセントの急勾配の坂が多く、大田区と品川の境界荏原町入口あたりまで続く。直線の道路は耕地整理の結果出来たものであり、古来からの馬込九十九谷ではない。
● 馬込村の中央(現在の大田区立郷土博物館前あたり)には、梶原三河守と言われる屋敷跡があり、うしろの平地は小名根古谷といわれた、谷に沿って空堀がめぐらされていたと伝わる(馬込城跡)。馬込城は台地一帯をめぐる広大なものであったらしい。北条氏の没落と共に破壊されたのであろう、現在、その面影は何処にもない。
村の総鎮守は八幡社(現・馬込八幡神社)で、他に浅間社、稲荷神社(現・西二稲荷)、熊野社、
羽黒権現社(現・湯殿神社)。寺院では万福寺、真言宗長遠寺、浄土真宗本願寺派善照寺などがある。 他の村と違い馬込村に日蓮宗の寺はない。(その理由は「万福寺の伝承」に伝承として書かれているが、史実であるか不明である)
●戦前、東京オリンピック開催のため、横浜から帝都東京まで道路建設が決定された、今の第一国道(第二京浜国道・二国)は馬込坂上より池上本門寺裏門下あたりまで、台地を削り直線道路を造るという大工事が行われた、そのために地形は大きく変化して、大田区内で一番地形の変化した場所が西馬込地区である。
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古い西馬込写真 品鶴線 |
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