耕地整理は未来へのインフラ整備、これにより 車社会への対応が出来た。
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●耕地整理は明治42年4月に発布され、44年1月1日から施工された。農業の土地利用を進めるためである。実際に施工してみると土地区割りの整理により、住宅地の発展を促すことになった。後に出来た土地区割整理組合と同じような役割を果たした。
大田区で耕地整理組合を一番に始めたのは入新井町 であり、大正5年(1916)末より実施された。省線(今のJR)大森駅近くから住宅地として発展し始めたからである。住宅地が多くなると住民相手の店が出来て商業地区が形成される。もともと大森駅山王は明治より外人の避暑地として住宅があったから、新しい住宅地を目指す耕地整理は実行しやすい素地があった。
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入新井町地区 |
設立年 |
完了年 |
所在地 |
組合名(注1) |
組合長名 |
大森4・5丁目、堤方町 |
大正9年3月 |
昭和11年 |
大森7ー3、192 |
大森第二 |
田中 考 |
大森7・8丁目 |
大正11年6月 |
昭和10年 |
同上 |
大森第三 |
島田由兵衛 |
大森9丁目・森ヶ崎一部 |
昭和5年 |
不明 |
同上 |
大森東部 |
伊東助五郎 |
森ヶ崎町 |
昭和7年 |
不明 |
大森7ー117 |
森ヶ崎 |
田中定男 |
大森9丁目一部 |
大正8年 |
不明 |
大森8の4、063 |
羽田第一 |
田中 考 |
(注1)耕地整理組合は省略、森ヶ崎耕地整理組合は田中氏個人で施工した個人組合。 |
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馬込町地区 |
設立年 |
完了年 |
所在地 |
組合名(注1) |
組合長名 |
馬込町東1、西1丁目、東2
と 3丁目一部 |
大正12年 |
昭和4年 |
馬込町西2ー2
109
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馬込第一 |
平林藤太郎 |
馬込3の一部、東4の全部
西3の一部、西4の全部
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昭和4年1月 |
不明 |
馬込東4の480 |
馬込第二 |
加藤甚五郎 |
馬込西2の全部、西3の
一部 |
昭和6年12月 |
不明 |
馬込西2の2、
109 |
馬込第三 |
河原源一 |
馬込東4丁目 |
大正11年11月 |
昭和10年9月 |
品川区大井原町
5、265
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大井・馬込 |
倉本彦五郎 |
馬込町東2丁目の一部 |
大正11年2月 |
大正13年 |
馬込西2の2、109 |
谷中 |
加藤三郎 |
(注)その他に東耕地整理組合があったが、大正13年に解散し、南北千束町の千束耕地整理組合は昭和11年解散した。 |
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池上町地区 |
設立年 |
完了年 |
所在地 |
組合名 |
組合長名 |
市之倉・桐里・梅田の全部、堤方・池上本町の一部 |
大正10年 |
不明 |
池上本町83中道院内
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池上耕地整理組合 |
横溝直也 |
池上徳持町、雪が谷、久が原 |
大正12年5月 |
不明 |
池上徳持町940 |
徳持耕地整理組合 |
指田政次郎 |
上池上道々橋町全部、池上本町池上洗足町の一部 |
大正15年1月 |
不明 |
池上本町90 |
池上西部耕地整理組合 |
綱島傳蔵 |
堤方町、大森5丁目の一部 |
大正7年1月 |
昭和12年 |
蒲田区御園6 |
池上・矢口・蒲田
総合同 |
吉岡縫之助 |
(注)堤方町は昭和9年9月20日に工事完了、池上西部耕地整理組合の第五区池上本町は昭和10年2月4日工事完了した。 |
(注)耕地整理リストは「東京市大森区役所」昭和14年2月12日発行。参照『池上町史』池上町史編集会 昭和7年 |
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●耕地整理組合と馬込地区の変遷
上記の「池上・矢口・蒲田総合耕地整理組合」を一つの例として説明する。組合員は69名、整理対象の土地は、官有地は道路及び水路・寺社を含む一町(町歩)約1ヘクタール、民有地が15ヘクタールの16ヘクタールである。この土地に道路を造ることは、私有地である地主達の利害をどう調整するかなどの問題が山積みであったと思われる。地主の土地の等価交換、利害の調節など大分苦労されたようだ。当時の記録では石川町が耕地整理に参加していないのは、大地主が2割り以上の所有土地が減るため反対で参加しなかった。このため現在でも道は狭く不便であると言う。耕地整理の記録はあまり残されていない。これは大田区だけでなく、他区も同じようである。民間の組合だからであろうか。
大田区馬込の場合には、対象の土地は沼地や収穫の少ない土地であったため、インフラを整備して住宅地にして販売するという目的で纏まれたのかも知れない。大正12年(1923)の関東大震災で被災された方が大森山王あたりから移り住んだ。しかし宅地化されたからと言ってすぐに売れたのではない。インフラの整備が遅れ、国鉄(JR)に乗るのは五反田か大森にバスで行く以外ない状態では人口は増加しなかった。
戦後、昭和30年代から徐々に増え始めたようである。品鶴線が貨物線から旅客線に替わり、上池上辺りに駅が新設される、そのような情報がいつまでもくすぶっていた。つい最近に西大井と川崎の駅が決まり、完全に駅新設はなくなった。
都営浅草線(1号線)建設の時も終点駅は馬込駅で、西馬込駅は計画にはなかった。そこで地元が団結して『車両整備工場が西馬込に建設されるなら西馬込を新設してほしい』と要望してなんとか西馬込駅が新設された。それまでは陸の孤島状態で五反田までバスで2〜30分かかった。戦後ベビーブームの私も昭和30年代後半に西馬込に移り住んだが、人口増加で小学校が足りずに急いで新設されたのが梅田小学校である。それでも都営地下鉄が出来たのは大学1年生後半だったと記憶する。昭和30年代後半の南馬込町の貴重な航空写真があるので見てほしい。
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昭和30年代の第二国道のバス停 |
大田区立梅田小学校近隣の航空写真 |
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地図は「東京市郡合併記念」東調布市編 昭和7年
(1932)刊、添付された地図 拡大表示
●耕地整理で発見された、5世紀に起源を持ち関東では7世紀頃まで造られた横穴墓
上の地図は馬込地区の横穴墓を示した、赤い印が発見された横穴墓郡である。馬込横穴墓郡、塚越横穴墓郡、本門寺・桐ヶ谷横穴墓郡である。特に塚越横穴墓郡は古代官人の剣が出土したことで有名である。地図の薄緑色は低地で縄文弥生時代から江戸時代前期頃まで浜辺であった。池上本門寺から蒲田方向を見ると一面葦原であった言う。
二枚の浮世絵は明治から昭和に生きた浮世絵師・高橋松亭(1871〜1945)が描いた塚越明神(現・西二稲荷)である。塚越明神は現在の都営地下鉄操作場(都交通局馬込検車場)となり昭和39年(1964)に移転した。夜景の浮世絵には水面が描かれている。古くは将監谷と呼ばれた沼地は泥が堆積して深く、耕地整理により埋められ「埋田」と呼ばれたが、イメージが悪いと言われ、現在の梅田と改称された。梅木の畑があったわけではない。また、梅田小学校の校章デザインは、生徒の描いたデザインを元にしている。
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『池上むら根方のふる里』綱島源蔵著 第一法規出版 (株)昭和56年11月1日
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● 著者の綱島源蔵氏は、昭和34年から20年間の長きにわたり大田区議を務められた。大田区が天野幸一区長のもと、大田区史を編纂している頃である。
郷土の歴史をオフィシャルな形で残す大田区史は、東京23区の区史編纂の先駆けとなった。この本も綱島源蔵氏の愛する郷土の確かな記録を残したいという情熱が、他にはない郷土資料を提供する。
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