被葬者は官人を思わせる副葬品が出土した塚越横穴墓群

昭和13年(1938)頃…第二京浜国道工事が始まってから1〜2年後、馬込町西一丁目の旧家である河原貞利氏の話が「大田区史」編集・発行大田区役所 昭和26年(1951)に記載されている。


『昔から横穴が至る所にあった、村人はこれを入定穴と呼び、戦死者を埋葬した穴であるとか、戦敗者が逃げ込んだ穴であるとか、色々に言われていた』『河原半七郎氏の邸の丘陵の切崩しのときに発見された横穴から、二本の直刀が表れたが、どれも倒卵形のつばを持つ圭頭形の柄の直刀で、佐藤朝山氏はこれを参考として和気清麿の銅像を製作された』と記載されている。この直刀が下記写真の大田区立郷土博物館(菊池義次コレクション)所蔵の刀ではないかと思う。

別の資料では、この直刀の出土場所を河原半七郎氏ではなく河原定利氏邸(南馬込5丁目)としている。『馬込の歴史』窪田明治著 昭和47年1月21日(私家本 馬込図書館蔵)旧住所と親と子の関係と思われる。


 

塚越横穴簿群(南馬込5-42-44、西馬込2-26・31・32・34・35、仲池上1ー2〜7番
 
横穴墓は現在40基程(大田区)確認されているが、マンションなどの建設により発見された事が多い、これからも発見されるだろう。古くは大正・昭和初期に谷木光之助、森本六爾氏により調査が行われ、結果として飛躍的に発見された。破壊されたのは昭和11年(1936)に始まった第二京浜国道の工事である。国益優先の国道作りは、考古学調査などの時間を与えず行われた。報告書を見てもほとんどが後からの聞き取り調査とか、出土品を保管するだけであり、同時期の発掘調査はないと考えられる。これにより貴重な考古学データーが失われたのである

 

これらの遺跡は、標高15メートル付近にあり、日当たりの良い南向きにある。この横穴墓群で、特に有名なのは「塚越14号墓」である。大きさは、ひと一人が埋葬された小さなもので、埋葬品の豪華さに比べ粗末なものでした。埋葬品は、金剛製頭椎太刀(官人の持つ刀)ひとつ、金剛製円頭太刀ひとつ、直刀(5)、鉄鏃(てつぞく 鉄製の矢尻 5種類・117本)轡(くつわ)ひとつ、鉄地金剛張杏葉残欠(2)、人骨などが出土した。「塚越35号墓」では、「雙脚足金物を持つ直刀」(長さ1メートルほど)出土した。

 報告書では、『官人的色彩の濃い人物の埋葬が推定されています』(『考古学から見た大田区』大田区刊)と記載している。後期古墳時代から見ると粗末な墓に思えるが、古墳に替わり横穴墓が造られるようになり、高貴な地位の人間も横穴墓で埋葬されたと考えられる。


 

 また、この土地を治める族長ではない官人の埋葬墓は、 塚越横穴墓群の埋葬者が推定できた貴重な資料と言えます。(地図参照) (馬込地区について)

不思議なことに、これだけの横穴墓が発見されているのに住居跡が発見されていない。おそらく住居は多摩川縁の低地にあり、住居跡は多摩川の氾濫により埋まってしまったのではないかと考えられている、現在のように住宅が出来ると遺跡の調査は難しく、発見されない可能性が高く、偶然の発見しかあるまい。


横穴墓(よこあなぼ)又は(おうけつぼ)について……
 
写真横穴墓の出現は九州地方からである。5世紀前半と言われるが、大田区内では遅れて7世紀前半である。大きさは、全長5メートル、高さ1.5〜1.8メートル、幅2メートルがほぼ基準である。平面の形は「徳利形」と「羽子板形」の二種類、天井の形はアーチ形である。床には河原の小石が敷き詰められていた。復元された横穴墓 松山公園の6号
墓。 

写真、上から塚越14号墓の「金銅装頭椎太刀」、写真ー中、塚越14号墓「金銅装円頭太刀」、写真ー下、塚越35号墓「直刀」。(大田区立郷土博物館蔵 菊池義次コレクション 常設展示)ただし特別展示期間には外されることもあり、要確認・大田区立郷土博物館 電話03-3777-1070

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