昭和35年(1960)頃の写真、現・西馬込郵便局辺りの風景である

撮影・久保井五郎氏 

昭和30年代の西馬込2丁目付近
現在、写真左側に西馬込郵便局がある。写真は反対側の小高い丘(現在はない)から撮影された、この写真で現在もあるのは「馬込質店」(ネオンはなくなった)だけである。質店の斜め後ろが、都営地下鉄・西馬込駅先頭出入り口である。森に囲まれたところに昔ながらの茅葺き屋根の家が点在する、しかし、背景の森は全て無くなり、西馬込駅(五反田より)、交番隣の高層マンションとなった。
 
下の道路を見て欲しい、舗装はされていない、また木造二階家と温室の前に板を渡した狭いドブ川があった。雨が降ると後ろの丘の崖下から湧水が勢いよく流れ出た。今はそれらの湧水もなくなった。ここは昔から「大谷(おおたに)」と呼ばれた湿地低地だった。右手前の木造アパートはなくなり、某宗教法人の綺麗なマンションが建設された。

 

第二京浜国道から水道タンクの峰道を進むと、坂上に「水道タンク2基」があり、大田区と品川区に給水していた。現在は災害用給水タンクとなっている。写真のタンク後ろがその峯道である。真っ直ぐ進むと綱島園の森が広がり、柵のない品鶴線の線路があった。写真は、谷を挟んだ反対の峰道から撮影されている。写真は昭和20年代頃と思われる。(写真は大田区立郷土博物館所蔵)

品鶴線のレールに耳をつけ、列車の近づいてくる音を聞いた。時たまゆっくりと貨物電気機関車が走ってきた。私は見たことはないが蒸気機関車も走っていたそうである。子供達は、線路脇のコンクリート製カマボコ型資材置場の上に登り、貨物列車通過を見送った。秋の夕焼けには何百匹もの赤とんぼが飛び、富士山が綺麗なシルエットになっていた。昭和30年代中頃のことである。
  地元の古老の話では、水道タンクが建設される前後であろうか、中馬込の高台が東京タワー建設候補地となったという。ごく一部の間でしか知られていない話であろう。水道タンクはドーム屋根滑りやすいために、あとで造られたドーム屋根はコンクリート製となった。

都営地下鉄西馬込南口(本門寺口)は、小高い丘を削り平地にしたところに作られた。昭和12年(1937)より始まった第二京浜国道工事で、丘は半分削られ切通しとなり、第二次大戦中には、その斜面に防空壕が数カ所掘られたが、戦後35年(1959)頃まで穴の開いたまま放置されていて我ら子供の遊び場になっていた。丘の上には黒澤明監督の映画『天国と地獄』と同じように瀟洒な家があり、ピアノの音が聞こえたような思い出がある。
 
30年代、夕焼けになると丘越えに本門寺五重塔がシルエットになり空に鳶(トンビ)が廻り、夜にはフクロウの声が聞こえた。湿地に蛍が舞う姿が見られた。高橋松亭の版画にも蛍が描かれている。カラスは記憶にない、いつから空はカラスだらけになったのか、わずか40数年前の風景である。
   

昭和初期の西馬込写真

古い写真昭和7〜8年の写真である。西馬込2丁目より二本木方向を見たところ、右側が馬込坂下になるが、第二京浜国道の工事は昭和9年10月からのため、のどかな風景である(工事は昭和14年頃終了した)。拡大表示  撮影・菅田尚三氏
古い写真昔の品鶴線
昭和32年3月撮影の品鶴線、同線は昭和4年(1929)8月21日に開通した。添えられた文章では、昭和20年(1945)に静岡へ向かう馬込住民の集団疎開では品鶴線が使われたという。昭和20年の4月、池上本門寺地区が爆撃に遭い多数の死傷者を出したことを受けて疎開を決めたのであろう。

前方に見えるのは、二本木の森であるという。子供達のいるのは、現在の中馬込近辺かも知れない。確か私が子供の頃、昭和40年代でも品鶴線線路には線路に立ち入らないための防護柵などなかったと記憶する。尾崎賢次氏提供 
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昭和7年(1932)頃の品鶴線、「池上町史」町史編纂会刊(昭和7年)
の口絵写真。
水道タンク写真
左の写真は水道タンク2基である。現在は非常用飲料水の貯蔵所となっている。このあたりの湧水や降雨は湯殿神社方向へ流れ内川に合流した。このタンクは昭和26年(1952)に右側が完成、昭和28年頃左側が完成したと言う。
トンボ・アキアカネ  撮影 金井日出夫
左写真は、馬込の至る所に見られたススキの群生である。よく覚えているのは品鶴線の線路両側に群生していた姿である。そこにはトンボのアキアカネが数知れず乱舞していた。
至る所に綺麗な湧水があり流れていた、大田区馬込の環境が生み出した姿である。写真は大田区に会社のあった(株)学習研究社社員 故金井日出夫氏の撮影したものである。撮影された昭和40年代にはこんな風景があったのだと懐かしく思う。
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