別称・玉川八十八カ所霊場の第七十七番札所・馬込不動と言われる長遠寺
長遠寺.山門写真
長遠寺(ちょうおんじ)
  真言宗智山派、山号は海岳山、院号は大乗院、旧本寺は醍醐三宝院。開山は寺に伝わる資料によれば弘安元年(1331)と言う。その後幾多の衰微をへた後、文亀2年(1502)に現在地に移転した、前の寺は字堂寺(現北馬込2丁目あたり)にあった。江戸元禄年間になり快慶により寺運が興隆した。そのため、彼を中興開山の祖としている。寺宝として十一面観世音菩薩立像がある。その観音様は鎌作観音と呼ばれ元は光雲寺(上大崎にあったが明治8年に廃寺)の寺宝であった。そのためか、古い地図では長遠寺を光雲寺と記載してある例もある。 (2007.10.13)
聖観音立像写真

近年、寺領域が整備され新しいイメージになった。門前には古くからの「庚申塔」延宝5年(1677)がある。写真右は宝篋印塔と本殿である。開祖上人の墓標。

無縁石仏写真
裏手の墓域には、無縁仏になったのか昔の墓石や
石仏が集められている。
如意輪観音の立像写真聖観音立像写真
左手に宝珠を持つ聖観音立像・舟形と如意輪観音
の立像古く珍しい立像、承応2年(1653)


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江戸の石仏、墓塔の出現……   江戸開府以来、日本中各地から江戸城や寺社仏閣などの造営に大工・石工など多くの職人が集められた。それらの仕事が一段落すると故郷へ帰る職人を除いて、数多くの職人達が江戸に残った。彼らは大名・武士達の宝篋印塔・五輪塔・屋根付き大塔婆、僧侶の卵塔などを製作していた。江戸中期頃より安定した世になると、風紀がゆるみ富豪の町民に石仏の造立が増えた。その流れが庶民にまで広がり爆発的に石仏が作られるようになった。長遠寺にもかなりの数の石仏が残されている。石工達が庶民の石仏を作ることで仕事になったのである。それまで、庶民の墓には木の墓標しか立てられなかったのである。石仏は木に変わる墓標になったのである。長遠寺は古い寺のためか、写真のように優雅な石仏が見られる。

江戸の石仏には優雅なものが多い ……
  江戸の石仏は造りはやや粗雑だが、粋な江戸を表す優雅なものが多いという、特に観音像や青面金剛立像に目を引く石仏があるという。 長遠寺の石仏達も、それをふまえて見ると、優しい優雅なものが多いと感じられる。
参考・「江戸の石仏」佐久間阿佐緒著 昭和51(1976)年刊 誠文堂新光社)


墓地横の坂は南坂と言われ、第二京浜国道を越えて根方(上池上付近)まで行ける馬込村の古道である。新幹線を越え猿坂につながる。その先は呑川を越えて環八方向へ、新田神社に行く道である。また、第二国道建設の時に裏手の墓地部分を削り、横穴墓が発見されたという。

目次扉に戻る  住所 南馬込5-2