●『江戸彫り』の始まり……
江戸時代に始まった建築装飾の木彫りは「江戸彫り」と呼ばれる。その流派は左甚五郎を始祖とする「和泉家」である、その身分は幕府作事方棟梁であった。日光東照宮の造営に参加、幕府作事方のため一般の社寺には作品が無いと言われている。この「江戸彫工系譜」を記した書物が『彫工左氏後藤世系図』(東京国立博物館蔵)である、東都彫工匠
後藤惣八正常が作成した『江戸彫り』の基礎資料である。その後、同博物館芸術部により加筆・訂正されている。 大田区の装飾豊かな神社「牛頭天王堂」龍の彫り物
推測では日光東照宮造替に参加した彫物大工は、狩野家より下絵をもらい彫刻した。この下絵は代々彫師の家に伝わったであろう、和紙に写し取られた下絵が行李(こおり)に保存されていたと聞いている。和泉家より一家を成した嶋村俊元(嶋村家)はその一人である。その下絵は倅の嶋村圓哲や門人の高松又八郎に伝わった。江戸中期まではこのように各江戸彫りの家に伝わったと考えられる。しかし江戸後期になると下絵による制作方法に変化が現れる、空想の霊獣から、より現実の動物等に近づく写実傾向が現れた、彫師の制作方法がより写実的・個性的になったと考えて良い。彫刻も立体的になり腕を競うような「籠彫(かごぼり)」などが生まれた。↑牛頭天王堂の龍、文久元年(1861)
●左甚五郎について……
『名誉小無敵左甚五郎』歌川国芳 (弘化4年 1847)東京都立図書館所蔵
日光東照宮『眠り猫』は有名な左甚五郎と、下絵は御用絵師・狩野考信と言われている。初代甚五郎は室町時代の生まれ、岸上甚五郎義信〈永正元年(1504)三月五日)であり、東照宮の眠り猫は左甚五郎の作品ではない。左甚五郎作といわれる彫り物は各時代にあるが、その多くが和泉家制作の彫り物と考えて良いようだ。
生国も紀伊(和歌山県)・和泉(大坂府)・讃岐(香川県)と色々言われている。
ある説では、文禄3年(1594)12月26日生まれ、狩野永徳の下絵で彫物 を造り、大工の遊佐与平次に弟子入り腕を磨く、やがて宮彫師となる。寛永11年(1634)4月28日に没したと言われる、左利きであるなどの伝承がある、伝承の時代背景には、彫工(宮彫師・堂宮彫刻師)の地位向上を目指す雰囲気があった。
代表的な左甚五郎伝説のひとつ…… 浄土宗
総本山 知恩院御影堂には左甚五郎が残した「忘れ傘の伝説」がある。(写真右)
●江戸後期の装飾過多の社寺建築……
江戸初期の寺社建築装飾は比較的簡素であった、蟇股・木鼻・虹梁など従来の彫り物であった。江戸中期元禄以後、日光東照宮の彫物修理は「和泉家」と「高松家」が受けており、元禄以後に彫物大工として確立したようだ。
時代を経ると、 在郷の寺社も徐々に虹梁や木鼻などに彩色・彫刻することが多くなり、江戸末期には、建物全体を飾る装飾化が特長になる。大田区でも御嶽神社などに見られるように、部材間を彫刻で埋めたり、部材自身を彫刻(地彫り)するようになる。この装飾化は江戸から始まり、江戸近郊から多摩・千葉地方・関東へ広がっていった。江戸近郊の大田区にも比較的早く伝わったようである。
池上本門寺の台地にある。
堤方神社拝殿向拝の龍、天保11年(1840)頃の作品と言われている
明治15年(1882)10月9日、大森貝塚を発見したエドワース・S・モースが川越を訪ねている、土器研究のため医者のドクトル・ビケローと共に川越氷川神社祀官
山田衛居(もりい)を訪れた。彼らは氷川神社を見て驚き、その装飾彫刻(宮物彫刻)を賛美している。氷川神社のモースと江戸彫りを御覧ください)
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江戸時代末期には 高価な漆彩の彫物に替わり、硬い槻(ケヤキの古名)材を用い、木目を生かして立体感を作る木地彫りが「江戸彫り」の主流となっていった。久が原東部八幡神社もこの流れを汲むものと考える。
大田区の調査によると、『装飾細部は蟇股を拝殿両側面の柱間に一具ずつ計四具入れる。木鼻は向拝柱に二具ずつ、四隅の側柱に二具ずつ計十二具ある。向拝柱の正面を獅子、側面を獏の木鼻とするのに対し、側柱の木鼻八具は全て同じ形状である。』とある。犀の籠彫は彫師が選んだ霊獣であろうか。久が原東部八幡社・向拝籠彫木鼻の犀(籠彫)文久2年(1862)推定
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