日光東照宮から始まる宮彫師の伝承 江戸彫工(堂宮彫刻)の世界ー1


日光東照宮の彫物大工と狩野派絵師の関与日光東照宮が社寺装飾に与えた影響は、現在の私達が考える以上に大きかったと考える。元和二年(1616)に造られた初期の東照宮(2代秀忠が造営)は和洋であった。装飾も簡素で木鼻・笈形・蟇股の彫物ぐらいであった。幕府の御大工は中井大和守正清である、彫り物を造ったのは大工で、助作・豊後・大仏の三人であると言われる。この頃、専門の彫師はいない、その役割を大工が担っていたのである。

  江戸幕府の基盤が固まり、その権威を象徴する日光東照宮は三代家光の命により、家康を祀る「山王一実神道」の宮として、寛永11年11月(1634)三代将軍家光の日光東照宮造替(寛永の造り替え)により、わずか1年半後の寛永13年4月(1936)に完成した。今のような装飾彫刻に飾られた東照宮となった。
寛永13年(1636)の造替では、主に唐様になり、現在見るような装飾豊かにな東照宮となった。彫り物を専門にする彫物大工もこの時に誕生したようである。確実に彫物大工が判るのは元禄3年(1690)の元禄東照宮大修理からで、彫物大工「岸上加右衛門」「同太郎右衛門」と記載がある。左甚五郎伝説も17世紀末から18世紀始め頃に生まれたようである。

 日光東照宮
本工事は、幕府作事方大棟梁・甲良豊後守宗広である。伝承や由緒書きによれば、彼は彫物が得意であったと言われる。一般的な東照宮造営の解説では、彼が建築・彫刻の総指揮を取ったと書かれおり、唯一の工事記録『日光東照宮大権現様御造営目録』でも「平大工」「彫物大工」「木引」の三つの職を統括していた。また狩野派の参加も確認できるが、一般的に狩野家探幽達の関与は触れられていない史料が多い、わずかに下記の記述を見つけた。
 
  『日光東照宮の上神庫の破風下の大瓶束の左右にある。探幽下絵と伝わる象の高肉彫は注目を引く』『建築彫刻の下絵は、初め土佐風のものもあったが、狩野派の書壇を風靡するに及んで彫刻の下絵は悉く狩野風となったが、末期にいたっては四条派を加えるものも出た。』と記載がある、狩野家の関与を窺わせる。『日本木彫史 日本文化史叢書 3』坂井犀水著 昭和4年(1929)
 
『ただし、工事には探幽をはじめとする狩野派の絵師が参加しており、絵師が意匠に関わっていたことも考えられる。』『陽明門の羽目は墨書によって、狩野養川院惟信の下絵に基づいて彫ったことが明らかである』との記述がある。『桂離宮と日光東照宮』日本美術全集 大6巻 江戸建築T・彫刻 講談社 1991年

池上本門寺には狩野家(中橋狩野宗家・鍛治橋狩野家・木挽町狩野家・浜町狩野家)の墓があり、南之院が菩提寺である。この霊獣の出現に狩野家との関わりがあるのであろうか。下絵なども伝わっているのだろうか、
狩野家については奥絵師狩野四家の系図(池上本門寺にある奥絵師・狩野4家の墓)から見ることが出来ます。
 後日、南之院に狩野家の事を訪ねたが、現在はほとんど繋がりがないと言われる。別資料によれば明治になりスポンサーを失った狩野家は後継(養子)問題や他の問題から消滅したようだ。かろうじて英一蝶(狩野家を破門)や表絵師・麻布一本木狩野家が家を継がれているようだ。私も何回か墓地を訪ねたが、表絵師・麻布一本木狩野家以外に花は供えられていなかった。

狩野探幽写真
別の説もある。積極的に狩野家の関与を認めた本。

 宮本健次著『日光東照宮 隠された真実』(詳伝社文庫 平成12年刊)写真は狩野探幽

 
『東照宮全体の美術装飾イメージは、狩野探幽が率いる狩野派である、従来の堂宮彫刻のやり方でなく、画を立体化させた彫刻を目指した。そのため彫り師に下書きを渡しイメージを伝えた。彫刻には背景が付けられ、漆(うるし)による彩色が施され霊獣の役割がより明確になった』と言う。確かに大棟梁甲良豊後守宗広は幕府の信任も厚く、「吉田神社の造営」「増上寺山門」「秀忠公の台徳院廟」などで重要な役割を果たしたが、日光東照宮のような装飾豊かな彫刻、制作には漆塗りや彩色の指定が必要で唐様の人物の配置(意味)を考え造る事が出来たかどうか疑問がある。宮本健次氏の言われるように狩野家(探幽・尚信・安信)が、山水画など唐文化の知識を生かして霊獣のイメージを創ったと考える方が私は納得がいく。日光東照宮の陽明門は、狩野探幽一人で全体イメージを創ったと聞くと正しいように思われる。しかし、証拠となる下絵や狩野派関与の具体的なものは少ない。
 
 別資料では、 日光東照宮は完成後も大規模な修理を必要とした、その修理をした中に池上本門寺五重塔脇に眠る狩野晴川院養信(1796〜1846)の名前が見える、狩野派後期の逸材である。おそらく東照宮修理を完成以後、代々狩野家が受けていた証拠と考える。

写真
日光東照宮以後の寺社建築の流れ……

 江戸時代には神社仏閣の建設は幕府(公儀)の仕事であり、全ての建設は幕府の支配にあった。幕府御用の 大棟梁甲良豊後守宗広なども民間の仕事は出来なかった。大棟梁は多くの職人を差配した、彫物大工も彼の下にある、日光東照宮の修理・他の東照宮の建設を通して職人は技術(わざ)を学び蓄積した。
  公儀関わりの東照宮は、江戸城内の紅葉山、芝の増上寺、寛永寺、浅草の東照宮があった、しかし浅草の東照宮は焼失した。これ以外に江戸初期から中期にかけて私営の東照宮が造られた(徳川家康を祀る)その数は約30社と言われる。根津の昌泉院(現根津神社)、小石川の伝通院・護持院(現・音羽の護国寺)、浅草の松平西福寺などが現存しており知られている。

写真は牛頭天王堂・手挟(てばさみ)の飛龍。
   鯰の髭と魚の尾鰭を持ち、羽で空を飛ぶ江戸末期建築装飾(大田区の文化財)


霊獣犀彫物各地の公儀作事以外の日光東照宮について……霊獣の伝播
 
  日光東照宮 が17ヶ月の短期で完成したのち、 参加した職人は職を失い故郷に帰ったり、職を求めて江戸へ向かった。この時日光に集められた職人は関東を中心とした地域であろう。寛永14年(1637)江戸城本丸が完成して西丸から移り住んだとき、城下の大名屋敷が日光東照宮を真似た華美の装飾に、家光すら華美で贅沢だと怒ったらしい。それでも家光治世の頃、江戸は公儀や諸大名の建築ブームであったらしい。大名の江戸屋敷でも日光東照宮を真似た装飾豊かな建築が多くなったと言われる。
  また徳川家(松平家など)一門の大名が各地で東照宮を造り、ほかにも家康を祀る神社も造られた。もちろん日光東照宮参加の職人は、その経験を生かし造営にも参加したであろう。そこで日光東照宮のすばらしさを語り、真似た多くの東照社が生まれたであろう、装飾に霊獣も彫られた。。

  「全国東照宮連合会」の調べによれば、江戸時代には全国で420社ほどあり、現存する社も100社(別の資料では285社)を越えるのではないかと推定している。同会に参加している全国の加盟神社は現在49社である。
  江戸時代中期頃にかけて、徐々に幕府の財政が悪くなるに従い公儀による社寺の建設は少なくなり、統制がゆるみ始めて、大名や有力寺社は幕府の許可を受けて独自に建設を始めた。寺の富札や御開帳はお金を集める手段となった。江戸元禄以後は、裕福になった町人が寺社に寄進して建設に参加して名前を刻んだ。彫物大工も元禄以後は、宮物彫師として大工仕事ではなくなり専門の彫り職人となったらしい。 
 
  江戸は多くの職人で溢れたはずである。職人は日光東照宮の斬新さと、特に装飾彫刻のすばらしさを江戸庶民に語り伝えた、『日光を見ずに結構というなかれ』などの言葉もここから生まれた



日光東照宮の再評価…ブルーノ・タウト呪縛からの脱却  

  日光東照宮の豊かな霊獣世界を、高藤晴俊氏の著書『東照宮に彫られた動植物 図説社寺建設の彫刻』東京美術刊(平成11年)によって教えられた。ドイツの建築家ブルーノ・タウトが昭和8年(1933)に来日して、日光東照宮を『建築の堕落、しかもその極致』『珍奇な骨董品』などと酷評したこと、反対に京都の桂離宮を『泣きたくなるほど美しい』と賞賛したことに私も影響されていた。

  明治以後の日本的なものの否定(侮蔑)と外国への憧れがいまだに尾を引いていた。桂離宮も日光東照宮もほぼ同じ時代に造られ、どちらも狩野探幽や狩野尚信が美術構成をになっている。桂離宮は水墨の世界を意識しており、日光東照宮は霊獣などを立体的に具現化する世界を目指したようだ。このことは今でも建築家の本にはあまり触れられておらず、霊獣などは単なる建築装飾と考えているようだ。大田区の調査でも建物の建築様式・年代にこだわるが、建築装飾(堂宮彫刻)は付属的な調査としてしか行われていない、

 
  世界遺産と認定されている海外の教会建築がいかに多くの彫刻に囲まれていることか、その彫刻は意味を持たされ、イコンのように信者を教化する目的により造られたものである。神をたたえ聖人を祀り、キリスト教に奉仕することである。彫刻の悪魔は踏みつけられ教会にひれ伏している。悪魔つまりキリスト教以外の異教(異境)は、征服すべき対象であり、神(教会)が許しを与えた搾取すべき対象である。極論すれば中世ヨーロッパ以外の世界は搾取され、教会に奉仕することは当然の事であり常識であった。中世ヨーロッパの大航海時代は、彼らにとって栄光の時代であるが、征服された国(アフリカ、インド、アジア、南アメリカ諸国)にとっては弾圧・搾取の始まった暗黒時代の始まりであった。
 



元禄以後の動向……在郷寺社の誕生
 
明治15年(1882)10月9日、大森貝塚を発見したエドワース・S・モースが川越を訪ねている、土器研究のため、医者のドクトル・ビケローと共に川越氷川神社・祀官山田衛居(やまだもりい)を訪れた。彼らは氷川神社を見て、その装飾彫刻(宮物彫刻)の素晴らしさにに感嘆している。
 
牛頭天王堂の向拝の龍(左側)


19世紀(1800年代)、 江戸中期から末期に向かい装飾豊かな神社が造られ始めた。日光東照宮造営から200年ほどを経て華麗な装飾が復活したのである。同時に石造り狛犬を奉納することが始まったと言われる。
  また江戸中期以後、幕府の統制が潤み庶民の墓が木から石に替わり、関東一円に道祖神・地蔵も盛んに造られるようになった。これも石工が僧侶・武士の発注者から庶民(町人)の依頼に応えられる時代になったからである。石工について

何故、江戸近郊の久が原村に霊獣犀(サイ)を持つ、装飾豊かな神社が存在したのか  
  江戸時代初期の熱気を帯びた雰囲気が、中期以後、想像力に溢れた木彫り装飾や個性的狛犬を創り上げ、その流れの最後に江戸末期の装飾豊かな霊獣を持つ神社が出来たのではないか。
 
  高価な漆彩色の彫り物の出来ない社寺では、硬い槻(ケヤキの古名)材を用い、木目を生かして立体感を作る木地彫りが「江戸彫」の主流となっていった。この流れは、やや遅れて江戸から近郊の大田区・多摩地方に広がった。久が原東部八幡神社
  大田区の調査(昭和62年)によれば、久が原東部八幡神社は伝承から『本殿は弘化元年(1844)3月に再建された』とある。また、この本殿は現在の拝殿ではないかと推定されている。
  本殿も小さいながら素晴らしい彫刻で飾られている。江戸中期頃まで、堂宮彫刻師(又は彫物大工)はあまり名前を刻むことはなかったと伝わる、江戸末期の彫物には墨書を書いた例もあるようだが、本殿を調査しても彫師名は分からないかも知れない。(次のページに江戸彫りについて)


『江戸の装飾建築 近世における建築の解放』寺茂著 INAX発行 図書出版発売 1994年)である。


  著者も述べているように日本人一般に装飾性の高い寺社は評判が悪い、しかし同じ人が、ガゥディーのサクラダファミリア教会を見て感嘆し、賛辞を送っているのである。日本で装飾性の高いのは日光東照宮が代表であろうが、この装飾性の高い寺社が江戸後期の庶民文化の中から生まれてきた。浄財を集めた寺社建築に過剰とも言われた装飾を持つ事は寄進者達の願いであった。本に紹介されている写真を見るとそのように思わざるを得ない。
紹介されている寺院  成田山 新勝寺三重塔、妙義神社など驚くほどの装飾性。