大田区 狩野探幽印章瓢箪形の墓 鍛冶橋・浜町・木挽町狩野家の墓10基

 瓢箪の形は墨壺をイメージか、狩野探幽の墓 狩野家墓 鍛治橋狩野家
写真 狩野探幽の墓

狩野探幽守信の墓は、瓢箪形石塔と碑形墓の2種類ある。並んでいるので分かりやすい。碑形墓の戒名は「玄徳院日道」である。幕府御用儒者の林鵞峰(1618〜1680)の書いた銘が一周年に刻まれた。(裏面)

"

「狩野探幽守信の墓」(1602〜1674年)戒名・玄徳院殿前法眼守信日道  
  狩野探幽守信は、慶長七年(1602)一月、戦国武将佐々成政の娘を母として生まれる。また、母の姉が五摂家の一つ鷹司信房に嫁いでいる。鷹司家では信房の子信尚(のぶふさ)が、慶長10年から元和元年(1615)まで関白の地位にあった。信房の娘孝子が昨元和9年12月に将軍家光の正室となる。孝子と探幽はいとことなる、驚くことに探幽と将軍家光は義理の従兄弟(いとこ)になるのである。この関係は決して無視できない縁であろう。(『江戸の鼓 春日局の生涯』沢田ふじ子著 2006年刊)から)

 教科書等に載る狩野探幽守信(1602〜1674年)は、狩野考信(たかのぶ)の子供で狩野永徳の孫である。彼は狩野派中興の祖と呼ばれ、鍛冶橋狩野家の初代である。寛永五年(1628)に16才で御用絵師になる。月俸20人扶持、のち幕府から鍛冶橋門外の神田松永町に屋敷と所領200石の優遇をうけた。寛文2年(1662)5月29日61才の探幽は法印(宮内卿法印)に登り詰め、300石を賜る。寛永12年(1635)34才の時に11才の益信を養子に迎える。

 最初の妻は慶安2年(1649)に無くなる。後妻を迎え、承応2年(1653)探幽52才に探信が生まれ、明暦元年(1655)に二番目の子供である探雪が生まれる。このため探信に鍛冶橋狩野家を継がせる決心をする。ために益信は別家「駿河台狩野家」を立てることになった。
 
  探幽の墓は、反花座(かえりばなざ)の上に瓢箪型(ひょうたん)の塔身が乗っており、酒徳利とも墨壺とも言われが、実は彼の落款印の形(下記)であるらしい。墓は都の文化財に指定されている。古くこの墓石は江戸芝三田の大乗寺(元禄年間まで日蓮宗)にあった。 明治から昭和にかけて活躍した日本画家で、「芸文家墓所誌」で知られる結城素明氏によれば、昭和11年(1936)11月20日に池上本門寺南之院墓域に移されたと書いている。 また墓石の法号中に「前法眼」の刻印があることから、おそらく探幽存命中の寿塔の可能性を指摘している。調べると延宝3年(1675)探信守政が建てるとある。場所は宝塔を正面から見て左側の墓域である。
探幽作品・東照宮縁起、二条城・名古屋城障壁画、1672年『春景図』フリーア美術館、狩野探幽の作品は人気があり、特に富士山は幕府や大名が競って求めたという。


池上本門寺の狩野家墓石には、三ツ矢の家紋が刻印されている。「中輪に三つ並び矢筈(やはず)」「丸に三ツ矢」、鍛治橋狩野家の家紋であるが、鍛冶橋狩野の関係者にしか刻まれていない。


「狩野探幽象」伝桃田柳栄筆 重文 17世紀 紙本淡彩 65.8センチ×48.2センチ 京都国立博物館蔵 鍛冶橋狩野家に伝来した桃田柳栄筆と伝わり、文化三年(1806)に焼失した狩野探幽象の草稿と言われている。(参照・京都国立博物館の説明文より)



墓は、狩野探幽後妻の墓である、狩野探幽墓の後ろにある。側面には探幽妻の刻印あり。後妻は狩野探信守政(1653〜1718)鍛冶橋狩野2代目と探雪守定(1655〜1714)を生んだ。実子2人が生まれたため、養子は別家をたてた。前の探幽養子は表絵師筆頭の駿河台狩野家始祖・洞雲益信(1625〜1694)である。やはり、探幽の後継者(子供)を生んだ事は大きい。2014.12.01更新


  狩野探幽の印について…
 
  探幽の愛した瓢箪形印は、『小堀遠州の考案 、印文の「守信」の書は林羅山(1583〜1657)の筆、刻は後藤徳乗(1550〜1631)と言うように当代有数の芸術家、儒家三名の合作であると伝えられている。』(『日本絵画の見方』榊原 悟著 角川選書 平成16年刊)印は「守」の文字うかんむり部分が欠損している。この欠損は作品から調べると明暦三年から万治四年(1661)三月までの間に発生したと考えられ、年代確定の目安になる。驚くことにこの探幽印の現物は三井文庫が所蔵している。
 
  この写真は鍛冶橋狩野家12代狩野探道(1890〜1948)が表した『鍛冶橋狩野家印譜』を大正10年(1921)に巧芸社(大塚巧芸社の前身か)が復刻した本である。(国立国会図書館所蔵)
  この本には探幽以後の探信、探舟、探常、探林などの印が収録されている。左も探幽印である。(、国立国会図書館の当該ページでは、サムネイルをクリックすると前ページのサムネイルが見られます。)

明治初期の鍛冶橋古写真
  鍛冶橋門は寛永6年(1629)、江戸城外堀に架けられました。写真に見える門は明治6年(1873)に撤去され、橋も戦後昭和20年代に戦後の瓦礫を埋め、堀と共に姿を消しました。写真に庶民の舟が浮かぶことから明治初年頃の写真と分かります。

江戸時代には鍛冶橋の警備は、柳之間詰めの小大名(1万石余り)が鉄砲10挺、弓5張、長柄10筋、持筒2挺、持弓1組であたりました。門内には南北奉行書所があり、奉行所に向かう庶民もおり、江戸では親しまれた橋だったろう。狩野探幽も幕府御用の日には、御用絵師の威儀を整え橋を渡ったであろう。


明治20年(1887)に始まる鉄道計画、利用される鍛冶橋御門
 
  東京市中央に一大停車場を建設し新橋までを官設する。北の秋葉原から上野は日本鉄道の私設とすることで始まりました。明治30年(1897)に地質調査を始めました。明治42年(1909)には東京駅から有楽町、鳥森駅間で最初の電車が走りました。山手線の建設は平面交差として踏み切りのない高架鉄道として近代明治を象徴するものでした。ただ財政的制約からある物は利用することとして、鍛冶橋御門の石積みも利用され現在も使用されています。鍛冶橋ガードがその陸橋です。高さ14尺(402メートル)、長さ36.5メートルあり、今でも現役で、石積みを見ることが出来ます。

  拝領屋敷 鍛冶橋狩野家の変遷ー  

探幽の拝領屋敷(絵図)−1
 
  狩野探幽が屋敷を拝領したのは、元和七年(1621)である。 地図は江戸後期嘉永年頃の鍛冶橋御門前の鍛冶橋狩野家を示す、赤枠で囲んだ範囲が狩野探幽が拝領した屋敷である。探幽が拝領した当時は、神田松永町であったが、地図では南鍛冶町一丁目と五郎兵衛町に挟まれた町で、真ん中に京橋狩野新道がある。新道とあるので探幽の拝領した時にはなかったと思われる。別の地図によれば新道は天保三年(1832)三月に造られた記述有る。

幕府の拝領屋敷基準でいくと、探幽は200石で400坪ちかい広さがもらえる。しかし、探幽が拝領したのは1033坪であった。探幽は奥絵師の基準で最高の200石(400坪)を遙かに越える高待遇である。のち加増されて300石という待遇になった。

地図には、鍛冶橋狩野家八代目・狩野探淵守真(たんえんもりざね)(1805〜1853)屋敷となっている。御城に面した道には木戸が付けられ、鍛冶橋には番所がある。
『中央区沿革図集[日本橋編]』東京都中央区京橋図書館編集・発行 平成7年刊

『呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図』
天保九年(1838)製絵図−2   (赤枠部分)が鍛冶橋狩野家付近である。西が銀座方面 国立国会図書館デジタルコレクション蔵↓

『八丁堀・霊眼島 日本橋南之絵図』文久3年 金鱗堂 尾張屋清七板−3 

  この地図では左側に探淵守真屋敷があり、右側が樋口探玉の屋敷の名前が見える。八代深淵守真の門人である樋口深月の子供であろう。狩野家屋敷下側には、稲荷社がある。地図の下側が日本橋通りである。近くには歌川広重が住んでいたらしいが正確な場所は判らない。(『日本の美術3』江戸の狩野派 至文堂 昭和63年刊)嘉永年頃の武鑑を見る(個人蔵)
 
探幽の伝記資料「探淵先祖書」
  鍛冶橋狩野家八代目探淵(1805〜1853)が探幽について記した書物。鍛冶橋狩野家探岳が原本を所蔵していると言われたが、現在不明である。また十一代探道が探幽の印を解説した「探幽印影」(1931年)も不明である。(参照・『巨匠狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』門脇むつみ著 朝日新聞社刊 2014年)
 
 トップ扉に戻る   池上本門寺目次