●石工について
上記木版 画は江戸時代の石工職人の様子を描いたものである。時代は将軍徳川家斉(1787〜1837年)の治世下、文化・文政の爛熟期である。
文化も最盛を迎えて、石工(イシク)も宮物(ミヤモノ)と呼ばれる寺社仏閣に奉納する狛犬、灯籠、鳥居などを造る石工が評価を受け石工名を刻んだ頃である。江戸時代初期から中頃まで、石工は大工などの下働きをする地位に甘んじていた。特に江戸開府の頃は城の石垣など土木工事が石工の主な仕事であった。江戸初期の幕府の作事(江戸城・寺社)や大名屋敷の建設も一段落すると
各地から集められた大量の石は江戸に残された。
●江戸庶民にも広がる石造物
石工は帰国する家族持ちは別として、多くは江戸に残り新しく石の仕事を始めるしかなかった。幕府の統制もゆるみ始め、町民階級が力を持つと、彼らにも石の墓石(墓標)を作ることが許された。墓石に戒名など刻むか、墓石代わりの石仏を彫ったり、道祖神などを彫るなどの仕事が爆発的に流行した。なかでも腕の立つ石工は画のようにミヤモノ(宮物)を造り定着した。江戸は寺社・大名屋敷が多い都でそこからの発注や、裕福な町民などの依頼など仕事には困らなかったようだ。我々が想像する以上に多くの石像物が作られた。
階級により決められていた墓標が商人階級の隆盛と共に緩やかになり、武士階級の石造墓標が町民階級にも流行りだしたのである。可愛らしい石仏が庶民にも買うことの出来る値段で普及した。。この流れの中から、ある意味ではステロタイプ化した大量生産物であったが、錦絵の美人画に影響を受けたような優しい観音様の石仏が生まれて来た、あか抜けた洒落た観音様が好まれてきたのである。江戸と近郊の荏原村などでは素朴な石仏より、歌舞伎などの影響を受けたあか抜けした石仏が多い、江戸から離れるほど素朴になって行くと言われる。
●過酷な石工の世界
石工の労働は厳しく辛い、硬い石を鑿を叩き、その粉塵を吸い込み胸を患うものが多かった。石工の子供も長男は別の仕事に就かせ、2男・3男を継がせて家の存続を図ったという。
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