狩野永徳以来の日蓮宗団信徒(信者)池上本門寺に眠る
江戸狩野家四家と一族の系図と墓



狩野探幽 顔写真 (注)2014.08.18 修正「狩野」の名字は省略してあります。左の写真は狩野探幽である。


池上本門寺の沿革  
  『池上本門寺は 宗祖日蓮聖人御入減の霊跡であります。開創については、寺伝は武蔵国千束郷池上の地頭で信者であつた池上宗仲より寺地の寄進を受けた日蓮聖人が自ら開倉したことを伝えています。しかしながら近年の研究では、開創を日蓮聖人入減直後の時期に求める考えが示され 、日蓮聖人入減直後に池上宗仲が邸内の持仏堂であった法華堂を拡張し、六老僧の1人である日朗に付与したのが池上本門寺の始まりであると推定されています。近世初期においては不受不施義を旨とする関東学派の拠点となりましたが、寛永7(1630)年に江戸城内において幕府主導で行われた受不施義をとる身延山との対論に敗れ、以降受不施義の拠点となりました。その後、日遠が第十六世となると日遠に深く帰依していた家康側室お万の方と、それに連なる諸侯の外護を受けるようになりました。お万の方が紀州藩徳川頼宣と水戸藩祖徳川頼房の生母であつた縁により、紀州藩徳川家の書提寺となりました。このような徳川将軍家の外護により、安定した寺院経営を行つてきました。』

(第3回特別展パンフレット『江戸狩野とその世界』立正大学博物館 2006年


池上本門寺と江戸狩野家奥絵師四別家
  絵師としての狩野家の成立は、狩野祐勢正信が室町幕府八代将軍足利義政の御用絵師に取り立てられることに始まります。室町幕府崩壊後、織田信長、豊臣秀吉など時の権力者に仕へ、大坂城 聚楽第、名古屋城を始めとした障壁画制作を任されていました。
  江戸時代初期には狩野宗家右近孝信の子で3男である狩野永真安信が中橋宗家を継ぎ、長男の狩野探幽守信は鍛冶橋家、 2男の狩野主馬尚信が木挽町家を造り、後に木挽町家から分家した狩野随川岑信が浜町狩野家を立ち上げ、奥絵師四別家が成立しました。

池上本門寺 南之院について……
  どのような経緯で南之院が菩提寺になったのか詳しい理由は不明だが、南之院の墓域には奥絵師当主や妻達の墓がある。その墓石は約90基あまりあり、宝塔の付近ほか、ほぼ三カ所に集まっている。狩野家の回向をした南之院には52基の位牌があると伝わる。
  今回、2009年4月に開催された展覧会『本門寺の狩野派展』パンフレットに記載された狩野家の墓地を訪ねて撮影した。パンフレット記載の戒名は「南の院」に保存されている御位牌から確認したものであると言う(南之院に確認済み)。上記系図は絵師すべてを網羅した図ではなく、江戸狩野四家の絵師名は池上本門寺に眠る墓地がある人達に限った。

南之院の瓦にあった「丸に三本並矢」か「中輪に三つ並び矢筈(やはず)」の家紋、鍛治橋狩野家のみに使われている
 
狩野家の始祖の狩野祐勢正信が日蓮宗であり、代々日蓮宗であった。京都から江戸に移った狩野家は池上本門寺を菩提寺にした。写真の瓦は、昭和48年(1973)12月吉日、山門・庫裏・屋根改修の際に記念としてに残された。

(注)
南之院に狩野家の事(資料)を訪ねたが、現在では狩野家との繋がりはなく、新しい話しを聞くことは出来なかった。(参考図書は鍛治橋狩野家のページに記載)

中橋狩野家宗家の墓域  ●鍛治橋狩野家と浜町狩野家の墓域1 ページ2 
木挽町狩野家の墓域


池上本門寺と狩野家について
  狩野永徳州信(えいとくくにのぶ・ 1543〜1590年)が亡くなると、長男光信(みつのぶ )(1565〜1608年)が跡を継ぐ、しかし狩野光信の長男 貞信(さだのぶ)(1597〜1623年)がわずか12才と幼少であったため、弟の狩野考信(たかのぶ )(1571〜1618年)が狩野派を率いることになった。その貞信が27才で死去すると狩野宗家は絶えてしまう、そこで狩野考信の三男・安信(やすのぶ )(1613〜1685年)が貞信の養子となり宗家を継いだ「中橋狩野宗家」である。
  年少より画才を発揮した考信の長男守信(探幽)は、徳川家康に才能を見いだされ、江戸城鍛治橋門外に屋敷を賜り、幕府御用絵師となり「鍛治橋狩野家」となり、次男・尚信は「木挽町狩野家」となった。ここに狩野三家が誕生した。その後、将軍家宣に愛された狩野岑信(みねのぶ)( 1662〜1708年)が分家して「浜町狩野家」となり、これで狩野四家となる。江戸幕府の奥絵師狩野四家である。
    奥絵師(御用絵師)は旗本と同等(お目見え)の家格であり、将軍にも対面でき、苗字帯刀を認められた。身分は世襲制である。この四家は、江戸城本丸大奥の御絵部屋に月6度の出仕を義務ずけられた。その権力は絶大で位は僧位格の法眼(ほうげん)、その上が法印(ほういん)である。この下に表絵師、町狩野と続くピラミッド型の序列が作られた。江戸時代を通して狩野家は隆盛を極めた。奥絵師の仕事・種姫婚礼行列図絵巻の制作
袖玉武鑑の狩野家
弘化3年の狩野家奥絵師


僧位(法印・法眼・法橋)を授かう奥絵師
    僧位には上位から、法印(ほういん)、法眼(ほうげん)、法橋(ほうきょう)の三つがある。古くは平安時代に勅許による僧綱(そうごう)の位階であった、つまり僧侶の位であった。それが江戸時代の中期あたりから仁和寺・大覚寺・三宝院などの門跡寺院から勅許を得ずに、これを許可する宣旨(せんじ)が出されて医者・儒者・絵師・連歌師などに名誉称号的に贈られた。画作の献上で皇族貢献の見返りに送られたらしい。贈られた絵師は探幽のように僧体となった。


奥絵師と表絵師の仕事 表絵師詳細
 江戸城の奥に月に2日ほど伺候して絵を描く、身分はお目見え以上で奥医師並、あるいは旗本と同格である。狩野探幽のように200石の所領と屋敷を拝領して帯刀を許され、代々世襲である。狩野4家奥絵師がこれにあたる。次に位置するのが、下記に記する表絵師である。狩野4家詳細 表絵師15家の詳細


日光東照宮写真本写真本写真本写真
日光東照宮寛永造替における狩野派の役割
「もっと知りたい狩野派ー探幽と江戸狩野派」安村敏信著 東京美術刊 2006年
「江戸の狩野派」日本の美術 第262号 昭和63年3月15日発行 黒河内平 至文堂
「狩野探幽 御用絵師の肖像」榊原 悟著 臨川書店 2014年刊
狩野墓マップ

『江戸・大名の墓を歩く』河原芳嗣著 平成3年(1991)六興出版刊
『芸文家墓所誌 東京美術家墓所誌続編』結城素明著 昭和28年(1953)(株)学風書院刊

池上本門寺『池上本門寺の狩野家墓所』パンフレット 、(注)戒名はこのパンフレットによる
『第3回特別展 江戸狩野とその世界』パンフレット 立正大学博物館 2006年配布
『江戸の絵師「暮らしと稼ぎ」』安村敏信著 (株)小学館 2008年刊
『もっと知りたい狩野派 探幽と江戸狩野派』安村敏信著 (株)東京美術 2006年刊
『日本の美術 江戸の狩野派 262号』細野正信 監修・文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館 至文堂刊 昭和63年3月15日刊
『池上本門寺・奥絵師狩野家墓所の調査』坂詰 秀一 編 池上本門寺 発行 2004年
「狩野探幽 御用絵師の肖像」榊原 悟著 臨川書店 2014年刊
『障屏画と狩野派』辻 惟雄集 第三巻 岩波書店 2013年刊
『探幽・守景・一蝶』江戸名作画帳全集4 小林 忠・河野元昭監修 駸々堂出版 1994年刊
『狩野派の三百年』東京都江戸東京博物館編 平成10年刊
『池上本門寺 奥絵師狩野家墓所の調査 』前 立正大学学長 坂詰秀一編 池上本門寺発行 平成16年刊
『狩野派絵画史』武田恒夫著 吉川弘文館 平成7年刊
『巨匠 狩野探幽の誕生 江戸初期、将軍も天皇も愛した画家の才能と境遇』門脇むつみ著 朝日新聞出版 2014年刊
『原色日本の美術 第十七巻 浮世絵』 小学館 昭和43年刊