奥絵師(御絵師) 狩野四家と表絵師について

狩野宗家 中橋狩野家…
狩野永徳の孫である狩野左近貞信が27才に若さで死ぬと、子がなかったため探幽三兄弟の末弟安信が宗家を継いだ。安信は探幽から見れば凡庸な才能と写ったのか、宗家を継がせて安泰を計ったと言われている。
宗家は免許状の発行権利を有した、他に潤筆料、鑑定料などの稼ぎがあった。また、狩野安信は『画道要訣』で画論を展開して狩野派の理論的支柱となった。この本の原本は不明であるが、16代中信氏が昭和4年に筆写した本が現存する。英一蝶も中橋狩野家の門人の一人であった。古画の鑑定料は、門人の塾頭が鑑定をすると「添状一枚」でおよそ一両であった

 
鍛冶橋狩野家…

初代は狩野探幽守信である。元和2年(1616)、紅葉山御宮、日光山東照宮陽明門、東叡山三縁山御宮などに画龍を描く。画龍は同家のお家芸になった。元和7年(1621)鍛冶橋門外の松永町に屋敷を賜る。寛永13年(1636)に御医師格の法眼となる(35才)寛文二年(1662)法印となる絵師では始めてである。同家は狩野探雪守定の病死から没落が始まり、8代・狩野探斑守眞あたりで衰退した。
 狩野探幽守信は、39才の時、大和絵の学習や古画の写生を始める、それは『探幽縮図』と言われる本となった。

木挽町狩野家…
 
狩野主馬尚信は、寛永七年(1630)に二代将軍秀忠より竹川町に屋敷を拝領した。6代栄川院の時に木挽町に移る、以後、木挽町狩野家を名乗る。探幽に劣らぬ画力を持つ。長男狩野養朴常信は法眼、中務卿法印になる、宝永6年(1709)紫宸殿に賢聖障子を描き高名となる。9代狩野晴川院養信(たけのぶ)は、江戸末期の狩野派中興の祖とも言われる。中国古画110点、古大和絵209点を集め、狩野派粉本主義に活を入れようとした。天明4年(1833)に法印となる。後に狩野芳崖、橋本雅邦がこの派から生まれる。
浜町狩野家…
 
宝永四年(1707)松平随川岑信(みねのぶ)に始まる。5代目狩野融川寛信は法眼になり式部卿と称した。性格は豪快で、絵の金砂子の濃淡による遠近法の工夫を時の老中に、「砂子をしわんだ」と咎められ口論末、帰りの籠の中で怒りから腹を切ったという。世に「腹切り法眼」「腹切り融川」と言われたと挿話がある。『狩野五家譜』(伊川院栄信の門人、小林自閑斉)文化9年(1812)によれば病死とある。

表絵師 駿河台狩野家…

初代は探幽の養子狩野洞雲益信である、この家系のみ御坊主格であり、他の表絵師が五人扶持であったのに対して、二十人扶持を賜った、表絵師は市中にあって狩野派画家の養成に努めた

表絵師 15家が創られた…

01.「駿河台家」洞雲益信(とううんますのぶ)(1625〜1694)駿河台狩野家の祖、承応二年(1653)に分家して駿河台家を設立。当家のみ20人扶持で表絵師の筆頭格である。(現・千代田区九段北一丁目付近)探幽系

02
.「山下町家」 狩野元信の次男・秀頼の家系、狩野秀信が祖である。(所在地不明)秀頼系 

03.「深川水場町家」
 狩野梅栄知信、明暦3年(1657)に別家となる。(現・江東区平野一丁目から三好一丁目付近)秀頼系 

04.
「稲荷橋家」 山下家二代春雪信之の門人・狩野春湖
が祖である。寛永三年(1750)断絶(所在地不明)秀頼系(2代で断絶)

05.
「下谷御徒士町家」 永徳の末弟・長信の家系・狩野休白昌信(現・台東区台東2〜3丁目付近)長信系 

06.
「麻布一本松家」 長信の三男・休円清信が祖、狩野休山是信(現・港区元麻布1〜2丁目付近)長信系 

07.
「本所緑町家」 長信の門人・作大夫長盛の家系、下谷御徒町の分家(現・墨田区緑付近)長信系

08.
「勝田家」 長信の門人・竹翁貞信が寛永7年(1630)に始まるが2代で断絶した。(現・千代田区鍛治橋付近)長信系

09.
「神田松永町家」 狩野永徳の弟・宗也種信の家系、狩野氏信が元禄年間に御用絵師になり祖となる。(現・台東区秋葉原から神田松永町付近) 永徳系 

10.
「芝愛宕下家」 狩野即誉種信が享保年間に松永家より分家(現・港区虎ノ門一丁目付近)永徳系 

11.
「浅草猿屋町代地家」 永徳の門人・狩野祖西秀信が祖、(現・台東区駒形一丁目付近)永徳系 

12.
「浅草猿屋町代地家分家」 素川信政の次男・狩野洞元邦信が元禄13年(1700)に分家である。(現・千代田区外神田三丁目付近)永徳系

13.
「根岸御行松家」(ねぎしおぎょうまつ)永徳の父・松栄の門人、狩野一翁内膳が祖である。(現・台東区根岸四丁目付近)松栄系 

14.
「築地小田原町家」 松栄の門人・狩野宗心種永が祖、(現・港区築地6〜7丁目付近)松栄系 

15
.「芝金杉片町家」 狩野梅雲為信が分家、元禄10年(1697)に町屋敷を拝領する。(現・港区芝一丁目付近)松栄系 

表絵師の身分は御家人格5人扶持で城中への出仕義務はない。

上記以外に、各狩野家や分家の門人で苗字を許された絵師は「町狩野」と言われた。

参考・『日本美術3 262号  江戸の狩野派』監修・文化庁 東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館


   明治以後の狩野派

  狩野派隆盛は戦国時代に始まった。武将の権威を表す城は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と続く天下取りの武将が競って大城を建造した。豪壮な城に武将好み障壁画などを描く仕事が絵師の主な仕事であった。三代徳川家光の派手好みを反映して初期の江戸市内は華麗な大名屋敷が軒を並べていた。江戸幕府が安定すると一国一城令により新しい城は造られなくなった。このため、狩野派の総力を挙げる仕事がなくなった。
  三代・家光の頃までは幕府も財政が豊かで、江戸の寺社建設は幕府の作事であったが、日光東照宮作事を境として各寺社の負担で造ることになり、建築バブルは弾けた。粉本による教育で、同じような仕事が出来る事により、幕府お抱えの絵師になった狩野派だが、多くの絵師が関わる大きな仕事が減少したため、一人で描く掛け軸などの制作が多くなった。狩野派も奥絵師を頂点とする組織を造り、表絵師に学び全国に散っていった。粉本を始めとするカリキュラムから師弟関係を通して、同じ形式、内容の絵を広めたのであった。
  狩野派のカリキュラムは線描の伝統を教え、維持するのに最適であったが、よく言われるように創造性の芽を摘むことになった。幕府の権威にあまりにも寄り添った結果、幕府崩壊と共に狩野家も瓦解した。幕府崩壊後、奥絵師4家は士族扱いであったが、表絵師は平民となった。江戸時代に狩野家の菩提寺であった、池上本門寺の南之院によれば、今は「狩野家とはお付き合いがほとんど無い」と言う。
( 参考)
『日本の美術3 NO.262 江戸の狩野派』監修・文化庁・東京国立博物館・京都国立博物館・奈良国立博物館 至文堂刊 昭和63年刊

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