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●上の写真は「中橋狩野宗家累代の墓」 後ろの墓石の中に「心覚妙貞需尼」とあるのは狩野探幽の先妻と言われている。平成21年9月4日に撮影に行くと榊(さかき)があった。縁者の方がお参りに来られたのであろうか。 奥絵師狩野家は法華(日蓮宗)信仰に篤く、菩提寺を池上本門寺南之院に定めた。何故、南之院が菩提寺になったのか分からない。狩野四家の墓も池上本門寺墓域にある。 ●「右近考信(うこんたかのぶ)」(1571〜1618年)の宝篋印塔 戒名・圓大院考信日養 元和4年(1618)没 彼は狩野永徳の次男であり、長男光信なきあと彼(光信)の長男貞信が正当の中橋狩野家を継ぐはずであったが、若くして没したため孝信が継ぐことになった。孝信は狩野家をまとめた中興の祖である。長男探幽(たんゆう)は鍛治橋狩野家となり、次男尚信(なおのぶ)は木挽町狩野家を創り上げた。三男安信(やすのぶ)は死んだ貞信の養子として、宗家中橋狩野家を相続した。後に常信(つねのぶ)の子・ 岑信(みねのぶ)が浜町狩野家を起こした。 右近考信の画として御所造営に描いた絵が、仁和寺に『賢聖障子』(1613年作)として伝わる。 ●宝篋印塔が並ぶ狩野家累代の墓↑ 左から狩野尚信・木挽町狩野家、真ん中は狩野貞信・中橋狩野家、一番奥が狩野考信の墓。宝塔印塔横にある狩野家の墓。 |
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●右「狩野左近貞信(さこんさだのぶ)」(1597〜1623)の宝篋印塔 戒名・安心院貞信日理大居士 元和9年(1623)没 中橋狩野家宗家 狩野光信の長男であったが、27才の若さで早世した。 ●左「狩野主馬尚信(しゅめなおのぶ)」の宝篋印塔(1607〜1650)戒名・圓心院實諦日徳 木挽町狩野家の祖である。慶安3年(1650)没 狩野 右近考信の次男、探幽の弟である。将軍秀忠より京橋竹川町に屋敷を賜る。兄探幽と共に二条城、聖衆来迎寺、知恩院障壁画の制作をする。また彼の水墨画も評価が高い、探幽と同じく狩野の名前を上げた。のちに僧籍に入る。子の養朴常信が木挽町の名を高めた。 |
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●左から「狩野永叔主信(えいしゅんゆきのぶ)」(1675〜1724)戒名・松岸院殿前大蔵卿法眼永叔日長大居士 享保9年(1724)没、中橋狩野家3代目 時信の子。 ●真ん中は「狩野永眞安信(えいしんやすのぶ)」(1613〜1685)戒名・長源院殿日実法眼永眞安信居士 貞享2年(1685)没、中橋狩野宗家の家祖、五代目 1662年法眼となる。通称右京、絵はあまり評価されなく「下手右京」と言われたが、古画鑑定や「画道要訣」などの本を残した。 ● 右は「狩野永真憲信(えいしんのりのぶ)』(1692〜1731)戒名・得解院永眞日經大居士 享保16年(1731)没、中橋狩野宗家四代目である。 |
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●左「狩野受川玄信(じゅせんはるのぶ)」(1715〜1731)戒名・植種院玄信日沾 享保16年(1731没 木挽町狩野家 狩野家の栄川古信の養子となるが17才で死去。 ●右「狩野永徳立信(えいとくたちのぶ)」(1814〜1891)戒名・永悳院殿晴雪斎立信日善大居士 木挽町狩野家・伊川院永信の子として生まれる。狩野祐清の養嗣子となり中橋狩野宗家を継ぐ、幕府崩壊後は師範学校、博物局などに務め、フェノロサに日本画の手ほどきをするなど活躍した。 |
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●左「狩野永徳高信(えいとくたかのぶ)」(1740〜1795)戒名・聽受院殿治部卿永徳法眼高信成文斎日意大居士 寛政7年(1795)没 中橋狩野家6代。●右「狩野祐清英信(ゆうせいてるのぶ)」(1717〜1763)戒名・如川院殿大蔵卿法印如滴斎祐清日淨大居士 宝暦13年(1763)没 中橋狩野家宗家 憲信の弟である。中橋狩野家宗家5代目になり、後に法印となる。
不思議な事は墓に刻まれたのは戒名ではない。 ●下「狩野永賢泰信(えいけんやすのぶ)」(1767〜1798)戒名・秋巧院殿永賢泰信日微大居士 寛政10年(1798)没 中橋狩野宗家7代目 |
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●池上本門寺内では最古の道標である。元禄10年(1697)8月吉日の造立で、祖師廟所と祖師硯水への行き先を示す。現在は宝塔右側の狩野家墓域の石段下にあるが、元の位置かは不明である。 寸法 台座・650×460×100、1760(高さ)×380(巾)×250(厚さ)(参考・『大田区の史跡名勝天然記念物』大田区教育委員会 2010年刊) |
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