引札とは江戸時代の広告、現代のチラシなどに当たる他
動く広告チンドン屋などがあった

 引札(ひきふだ)とは何か……
 『引札とは簡単に考えて頂くと、いま日常の中で新聞に入ってくる折り込み広告です。あれが浮世絵師たちによって描かれていた。』『私が調べた資料によると、ある呉服店が大蔵ざらえという名目で江戸市中になんと5万枚のチラシを配布したという記録があります。』(「江戸のニューメディア 浮世絵 情報と広告と遊び」高橋克彦著 角川書店 平成四年刊)著者の計算によれば江戸庶民の戸数を、7万軒と仮定すると、チラシ配布対象の女性(呉服であるから)のほとんど全ての女性に見られる可能性を考えておられる。

「現金掛け値なし」の新商法を伝えた引札(ひきふだ)
  駿河町・三井越後の引札(江戸・享保年間)三井文庫所蔵

江戸開府以来、暖簾や看板など引き札(広告)に類するものはあったが、市中の家庭に配られた引き札には 唖然とさせられた。天和3年(1683)4月、引き札の内容は三井越後屋(三越の前身)が店舗を駿河町に移転した際に、革新的な販売方法を、改めて多くの人に知らせるものでした。これが引札と呼ばれ、今日のチラシ広告の始まりです。のれんや看板とちがい、向こうから飛び込んでくる宣伝物に、世間はびっくりしたことでしょう。

引札の始まりは古い
 天和3年(1683)に三井越後屋が日本橋駿河町に移転、その開店告知に「呉服物現金安売無掛値」引札を配った事による。この引札は、今までの三井越後屋が武家階級への掛け売りから、庶民への現金売りに大きく展開した事実による。また幕末の安政3年(1856)、上野松坂屋が引札を5万5千枚を配布したという。また、引札を初め団扇繪や絵暦などあらゆる方法で、江戸の広告は行われ、明治にも引き継がれて言った。明治中期になると新聞の折り込み広告になり、引札からチラシと名称を変えていった。(「引札繪ビラ風俗史」増田太次郎著 青蛙房刊 1981年刊)

国立東京博物館所蔵

国立国会図書館デジタルコレクション所蔵
左の絵に越後屋の文字はない。先に制作され、加筆されて越後屋の広告となったのが右の浮世絵。

『13世紀に一遍上人が「南無阿弥陀仏」の札を出したとあるが、天和3年に越後屋が呉服の宣伝に「現金安売り掛け値なし」という引き札を十里四方に出したのが引き札の始まりと言われる。裕福な大名、武士が年に1、2回まとめて払う掛け値売りが大店舗では普通で、これを交渉値引き掛け売りがなく、現金取引の正札売りにしたのが大いにあたった。同業者の反発に幕府の検閲も入ったが、井原西鶴はこれを大商人の手引きと引用した。来客に酒や割引券を進呈するなどの文句も話題になった。その後、平賀源内が1769年(明和6年)に知人の依頼で歯磨き粉の引き札を作ったのが有名になった他、多くの作家が引き札を作成し、話題になった。』(参照・ウィキペディア)
  私も広告業界の隅にいたので良く理解できる。浮世絵の専門家の中には、引札の残存率から重要視しない方もいらっしゃる事と思うが、当時引札をコレクションや取っておく人間はいなかったであろう。ごく一部、版元や山東京伝など商売で必要とした人以外はいないであろう。

『夏衣装当世美人 白木屋』喜多川歌麿 東京国立博物館所蔵

『夏衣装当世美人 亀屋』喜多川歌麿 東京国立博物館所蔵

江戸時代は、浮世絵師も引札繪を制作した。浮世絵師は職人で芸術家ではない、歌麿・北斉・国芳など現代に著名な浮世絵師も、数多くの引札を描いている。渓斉英泉は美香料の広告を載せた浮世絵を描いている。戯作者は自分の本に広告文を載せている。見世物や歌舞伎興行の告知も墨一色の引札を作り、興行前に江戸市中に配布され、観客を集めた。
引札「味噌溜製造 海野隼一」明治44(1911)年、郵政博物館所蔵
引札「山屋呉服店」大正9(1920)年 郵政博物館所蔵
『江戸時代、芝居小屋の宣伝がいちばん先端をいっていたようだ。各小屋の正面に掲げる絵看板、役者看板、役割看板などは大きく派手だったし、辻看板といって床屋や浴場など人々が多く集まるところにも看板を立て、新狂言や役者の顔ぶれを張り出した。さらに書付といういまのチラシに当たる宣伝ビラを大量に摺り、街の辻々で道行く人たちに配ったりした。(「歌舞伎と江戸文化」津田 類著 ペリカン社 2002年刊)

国芳画が描いた銘酒『剣菱』の団扇ー引札ー.

剣菱の広告 団扇絵
「名酒揃ー剣菱」(団扇繪 引札)絵・朝櫻楼国芳(歌川国芳)名主単印・村田平右衛門(浅草平右衛門町)版元・万屋孫兵衛 日本橋通町、天保14年から弘化4年(1843〜1847)東京国立博物館蔵
団扇の寸法は、縦・22〜24センチ、横・30センチ以内。京都で作られる団扇は、扇面は細い竹を広げるのは江戸と同じだが、江戸団扇が一本の竹から作られるのに、京都団扇は絵の部分を別に差し込むスタイルである。

永正2年(1505)創業の日本酒醸造メーカー「剣菱」の引札である。「瀧水」を表す二文字をデザインしたマークがはっきりと描かれている。正月用の宣伝らしく、国芳は着物の柄におめでたい鶴・亀などを配し、正月用の重箱も描いている。この団扇をどのように配ったのだろうか、酒屋か、新年を迎え暦を売る暦売行商人にもたせたか、団扇の行商人か、いろいろ考えられる。

団扇絵は日用品のためか残されたものはきわめて少ない、国内で見られるのは製品前の校合摺りなどがほとんどである。外国にはロンドンのビクトリア アンド アルバート美術館やポーランドのクラクラ国立博物館に「団扇絵コレクション」がある。

左は町を流して売った団扇売り、上は京都の団扇店、扇子や団扇を扱った。今と同じように江戸から来た武士や庶民に、お土産として販売したのであろう。観光は昔から大事な産業である。「世渡風俗図会」国立国会図書館デジタル化資料、「都名所図会」5巻 
上は、秋里籠島、竹原繁信画、天明6年(1786)(国立国会図書館デジタル化資料)

深川芸者置屋、または商店街の宣伝か長唄・常磐津など組合の団扇か
浮世絵
「三川図会_深川 団扇絵」絵・一勇斉国芳(歌川国芳)改印・安政5年(1858)
版元・伊場仙 伊場屋仙三郎(団扇堂)彫り・彫竹 横川竹二郎 

  今でもお馴染みの商店会売出し団扇のようである深川芸者の置屋の名前か
東京国立博物館蔵


「立義 吼箴」一勇斉国芳(歌川国芳)名主2印、不明 弘化4年から嘉永5年(1847〜1852)、版元・伊場仙 伊場屋仙三郎(団扇堂)

  家紋が重要な手がかりになるのだろうが、分からない。何か長唄・常磐津などの江戸時代の音曲に関連するとおもうが、詳細は不明である。大英博物館所蔵

幕府公認の遊里「吉原」の仮営業告知長唄・常磐津など組合の団扇か


団扇絵
「夏 四季ノ内 仮宅の見通し涼」(吉原仮宅之図)香蝶楼国貞(歌川国貞、三代豊国)名主2印・渡辺庄右衛門・村田平右衛門と思われる。弘化4年から嘉永5年(1847〜1852) 版元・伊場仙 伊場屋仙三郎(団扇堂) 吉原が火災により焼失、仮営業の仮宅を宣伝するためと思われる。花魁の手に持つ団扇には国貞の文章がある。国立国会図書館デジタル化資料


団扇絵
「闇の夜の蛍」玉蘭貞秀(歌川貞秀)版元・伊場屋久兵衛 天保13年(1842) 国立国会図書館デジタル化資料 どうも行灯の引札と思うがどうだろう。

広重の名所江戸百景は、一種の江戸宣伝

浮世絵 広重

「名所江戸百景 びくにはし雪中」絵・歌川広重(2代) 安政5年(1858)版元・ととや 魚屋栄吉 国立国会図書館デジタル化資料
 
  看板の「山くじら」やとは猪を食べさせる店である。右の看板「○やき 十三里」とは、サツマイモの丸焼きである。場所は現在の銀座一丁目付近、火の見櫓は数寄屋橋付近。行商人の足元は雪に埋もれて見えない。広重は江戸で人気の猪鍋を江戸名所と捉えた。美味しい冬に画面設定するなど、さすがである。また広重の絵の中に登場する子犬もいる。

尾張屋
『ちなみにこの店は尾張屋という屋号の店で、文明開化のころは 豚肉や鶏肉を食わせ、大正時代まで営業していた』、江戸時代には、滋養のためと称して獣肉を食べることは許されていた、薬食舗といい、麹町に「ももんじ屋」が一軒あった、20年前頃(文化・文政年)の事である。
(『江戸繁盛記 寺門静軒無聊伝』佐藤政美著 実業之日本社 2002年刊)

在日本スイス大使館ホームページ 『Grand Tour of Switzerland in Japan』 https://grandtourofswitzerland.jp/cms/334/?lang=jp エメ・アンベール=ドロー(1819〜1900)
『アンベールは、スイスの連邦参事会に説得し、日本との条約交渉を進めるために、特命全権公使として代表団とともに来日することに成功しました。 145日間の航海の後、1862年11月17日に長崎に到着し、その後1863年4月26日に横浜に到着しました。そこで、弁天地区にある、オランダ総領事ディルク・デ・グラーフ・ファン・ポールスブルック(1833-1916)の公邸に滞在することになりました。10ヶ月にわたる、江戸幕府との交渉は不成功に終わり、スイス政府の判断で、彼の任務は解任されようとしていましたが、オランダの外交官の仲介もあって、任期の終盤で条約を締結することができました。 1864年2月6日、アンベールと幕臣で外国奉行の竹本甲斐守は、「スイス連邦参事会と日本国大君間で締結された修好通商条約」に調印しました。これにより、スイスと日本の友好関係が成立し、経済活動が始まりました。スイスの時計、武器、精密機器産業の繁栄につながっていきます。 アンベールは、スイスに帰国後、1866年から1869年の間、週刊誌「ツール・デュ・モンド」(「世界一周」)に、日本での見聞記を連載しました。批判的でもあり、賞賛にも満ちてる、この長い文書は、476点の挿絵を含む、856ページの2巻にまとめられ、「Le Japon illustre´(日本図絵)」、Hachette、1870)と題して出版されました。 当時、極東アジアに関する文献はほとんどなかったので、彼の出版物は、19世紀後半のヨーロッパにおいて、極東のイメージを形成する上で大きな役割を果たしました。』
この中の一枚が麹町の尾張屋「ももんじ屋」の浮世絵である。 現在、この日本図会は「絵で見る幕末日本」「続・絵で見る幕末日本」(講談社学術文庫)として出版されている。

エメ・アンベール=ドロー(1819〜1900)

ー喜多川歌麿の引き札、日本酒「男山」ー

「名取酒六歌仙」絵・喜多川歌麿 江戸の遊郭・大籬(おおまがき)若那屋の遊女白露である。酒樽には、木綿屋之男山とある。男山は江戸初期より禁裏(朝廷)に納入されていた酒である。男山は、摂津伊丹で創業した醸元である、八代将軍吉宗の愛用した酒である。遊女白露も高名な遊女である、有名な二つを巧みに配置している。東京国立博物館蔵 (参考・名品揃物浮世絵 全十二巻 『3 歌麿1』ぎょうせい 平成3年刊)

喜多川歌麿の
「名取酒六歌仙」を見る。東京国立博物館
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