源義家は理想の武将・河内源氏の棟梁である武士の鑑として伝承された


大田区山王に伝わる源義家伝承『八景坂の松』江戸時代

 名所江戸百景は、安政3年(1856)から安政5年(1858)にかけて制作された、歌川広重晩年の118枚シリーズである。安政の大地震で壊滅した愛する江戸の復興を祈ったシリーズと考えられている。 やや高い位置から俯瞰する構図が特長であるが、見事に構成されている。義家伝承の「鎧掛け松」と江戸湾の彼方には房総半島、眼下には東海道が見える。現在の大森付近の風景である。 八景坂の茶屋には風景を見ながら休む旅人、右下には東海道鈴ヶ森を迂回する籠が登ってくる。初代広重が日蓮宗か判らないが、二代広重は日蓮宗らしく、画中の右に万灯を振る男が描かれている。



『名所江戸百景 八景坂鎧懸松』歌川広重 
安政5年(1858)大田区立郷土博物館蔵
 
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「江戸名勝図絵 八景坂夕景」文久2年 (1862)
2代歌川広重
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「義家武者无類(ぶるい)_八幡太郎義家」
絵・月岡芳年 明治19年(1886)
東京国立博物館所蔵    拡大表示

「月耕随筆 名古曽関」画・尾形月耕
  大英博物館所蔵  勿来の関を越えてゆく義家主従。
この絵は、「古今著聞集」(13世紀)橘成季による
日本三大説話集の一つを題材にしたらしい。
  
   ●
義家の勿来の関錦絵 2点
 

「勿来の関」月岡芳年 明治の錦絵3枚揃い 
国立国会図書館蔵
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源義家伝承 明治の木版画三枚揃え、(「馬込と大田区の歴史を保存する会」所蔵)
「源義家名曾之関之図」画・歌川子国政  拡大表示
  五代目・歌川国政(生没年不明)雅号・柳蛙(りゅあ)、子国政、四条派の影響を受ける。その事はこの絵にも伺われる。彼の絵は日清戦争の中にも見いだされる。国立公文書館 アジア歴史資料センター



上写真は源義家である、 『古画類聚 図版遍』松田定信  寛政7年 (1975)東京国立博物館蔵

「勿来の関」について
  いわき市勿来町付近にあった古代の関所。常陸(ひたち)・陸奥(むつ)の国境にあり、白河の関・念珠(ねず)ヶ関とともに奥羽三関のひとつ。はじめ「菊多の関」とよばれた。(コトバク)勿来の関を詠んだ歌
  
東路は勿来の関もあるものを、いかでか春の越えて来つらん 源師賢
みるめかる海人の行き交ふ湊路に、なこその関も我は据ゑぬを 小野小町
のど病みて旅は勿来のせきに来て、はな散るかぜをたれかしるらん 狂歌


ー鳥越神社の源義家伝承−水鳥伝説ー
平安時代末期の台東区両国あたり地図

日本武尊(やまとたける)
 東国平定の道すがら、当地の白鳥村に滞在し、後に村民が白鳥明神として白鳥山の山頂に奉祀したことを起源とし、白雉二年(652)の創建とされます。(1185まで白鳥村と呼ばれていたそうです)

 
  永承年間(1046-52)奥州の安倍定任の乱(前九年の役)鎮定のためにこの地を通った源頼義と義家の軍勢は大川(隅田川)を白鳥の渡るのをみてそこが浅瀬であることを知って渡ることができ、白鳥大明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉じ、社名も鳥越神社となります。(鳥越神社由緒より)

「当時は小高い丘であったこの地に朝廷の命にて奥州平定(前九年の役)へ向かう途中、源頼義・義家父子はこの丘で休憩をしていた。その時、川上より流れてきた銀杏の枝を拾い上げ、その枝をこの丘の上に差し立て「朝敵退治のあかつきには枝葉栄ふべし」と都の氏神に祈願し旅立った。奥州平定後この地に戻ってきた時には、丘の上に差した銀杏の枝が大きく繁茂していたので、義家公は御神恩に感謝し、この地に大刀一振りを捧げ八幡宮を歓請したのが、 康平5年(1062)当社の始まり」と伝へられています(銀杏岡八幡社由緒)。東国の神社には義家伝承が数多く伝えられている、後からの伝承と思われる話が多く、義家伝承が多くの民衆に愛されていたか分かる。

源義家は納豆を発見した。(納豆伝説)
 
八幡太郎は、馬糧大豆の中から「納豆菌で発酵した大豆=いわゆる糸引き納豆」を発見し、兵糧に採用したとされる人です。(参照・河出文庫『たべもの戦国史』永山久夫著 河出書房 1996年刊)


頼朝からの武家政権は徳川幕府で終わったが、義家伝承は明治にも受け継がれた
足利尊氏も八幡太郎義家のイメージを利用した。
足利氏に伝わる伝承としては、『われ七代の孫に生まれ代わりて天下を取るべし』という八幡殿(義家)の置文(遺言書)が足利家に伝わったとされます。義家から七代目にあたる足利家時は、自分の代では達成できないため、三代後の子孫に天下を取らせよと祈願し、願文を残して自害したと『難太平記』(今川了俊 1402年(応永9年)成立)に記載されている。(参照・15.足利尊氏の鎧)
 
  源姓の足利氏が厚遇されるようになったのは、鎌倉時代に頼朝と同じく熱田大宮司家の出身の母を持つ義兼(よしかね)が、源氏一門として認められてからである。新田・足利氏の祖となる義国は、寛治三年(1089)、義家と摂関家(藤原師道・もろみち)の家司藤原有綱の娘との間に生まれた次男である。


徳川家康も河内源氏新田系の系統であると強調した、(徳川家康の系図)

多くの歴史家は、徳川家康の系譜を捏造された系図であるとしている。河内源氏の系図を提供したのは、忠臣蔵で有名な吉良家である、この功績で吉良家は高家筆頭となる。 家康は江戸幕府を開くと家の血筋から禄高を決め基本とした。血筋が全てであり長子(男子)相続とした。二男・三男は部屋住みとして長男の厄介者であった。幕府の正式文章でも「誰々のやっかい」と記載された。家康は、鎌倉幕府の将軍継承の難しさを知り、絶対的な規範を造った。また、紀州・尾張・水戸の御三家を特別将軍継承家とした。
 
大名も系図を捏造、秋田藩の佐竹氏は、義家の弟である新羅三郎義光の源氏であるのに、藩史では「義家の御正統」と記載している。

徳川家が新田系源氏であるせいか、大田区の新田神社や頼朝が造営した六郷神社は人気の参拝コースで賑わったと言う。また、平間街道の一部である八景坂は『八景坂鎧掛松』として、歌川広重晩年のシリーズ名所江戸百景の一枚になった。


徳川幕府が崩壊して明治政府になるが、武士のイメージは軍人に移行する。

 庶民は解放され文明の恩恵に喜んだが、政府の基本は軍事国家(武家政権)である。武士だけが戦う世界から、国民皆が戦う軍事国家になった。男子には徴兵制が、女子には銃後を守る役割が課せられた。八幡太郎義家も理想的な武人(軍人)として尋常小学校教科書に掲載され利用された。上記の浮世絵三点は明治になり作られたものである。(参照・10.明治から敗戦まで歌われた尋常小学校唱歌)

明治の歴史教科書の記載(尋常小学校教科書)

『歴史教育の内容構成の中心は、天皇を中核として忠良賢哲の人物を伝記的に扱って、天皇と国家への忠誠心を育成することにおかれた。いわば、「人物主義による歴史教授」であって、歴史上の「偉大な」「英雄」的人物と重要な事件をとりあげていく方法である。
 検定期の歴史教科書の1つに山縣悌三郎(やまがたていざぶろう)『帝国小史』がある。1893(明治26)年発行の巻1・2の2冊本であり、緒言に「児童に記憶しやすくするため(中略)その世に名高い人物を題とし、その中に当時の著しい事実を記した」とある。

巻1では、「我が国」「神武天皇」「日本武尊」「神功皇后」「仁徳天皇」「聖徳太子」「天智天皇」「和気清麻呂」「桓武天皇」「菅原道真」「紫式部」「八幡太郎義家」となっている。』。政府による思想教育である。(参照・「歴史教科書」木全清博)

軍国主義の昭和初期頃、少年雑誌の付録にも軍人の鏡とも言われる源義家の戦う姿が描かれた。

「少年倶楽部 付録」昭和6年(30センチ×22センチ)、画・羽石弘志(羽石光志) 大日本雄弁会出版(戦後の講談社)。
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