武士の棟梁を名乗る徳川家康も源義家に連なる家系であることを誇る
   
徳川家康も武士の棟梁である清和源氏に連なる家であることを誇示した、吾妻鏡を研究した結果、清和源氏の河内源氏系でなければ武士の統領「将軍」になれないと知ったからである。
 
中世から近世は家系が大事であった。戦国時代に頭角を現した徳川家も例外ではなく、徳川は義家の二男義国に連なる新田系源氏であると称した。現在の群馬県新田郡尾島町に世良田と呼ばれる地区があり徳川家の祖先と伝わります。徳川家の系図は偽装したものであると系図学者の多くは言う。この系統が新田系源氏であることから江戸時代には、武蔵国(現・大田区)・新田神社にお参りする人々が多かったという。
行楽が盛んになった江戸中期には江戸から海岸線を舟で訪れ、六郷神社、羽田弁財天や本門寺、新田神社、平間寺(川崎大師)などを楽しんだ事は、江戸名所図会に見るとおりである。また徳川家康に新田系の系図を教えた(提供した)のが吉良家であるという、この功績で吉良家は旗本の高家(3000石)という地位を獲得し、江戸幕府の儀典関係を取り仕切る家として存続した。後に赤穂浪士討ち入りの敵役となる吉良家である。
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