源頼朝の挙兵、軍事貴族から政治家頼朝へ鎌倉幕府設立への軌跡

源頼朝の挙兵は、伊豆目代山本兼隆の館を襲撃することから始まった。
  治承四年(1180)8月17日、伊豆三島大社祭礼の夜、頼朝は土肥実平、北条時政など30〜40名を襲撃に向かわせた。二手に分かれ、堤信遠を襲撃して成功する、しかし山本館は襲撃に成功したという合図がない、そこで頼朝は護衛として残しておいた山本景廉(やまもとかげかど)ら二名を援軍として向かわせた。絵は館内で槍で突き殺す山本景廉の姿である。(山本館の場所は、伊豆国田方郡山木郷)(参照・源平の内乱と公武政権)
 山本景廉は頼朝の側近として活躍、治承・寿永載乱、奥州合戦に活躍した。建久四年(1193)11月、頼朝の命で安田義資を誅殺し、遠江国浅羽庄の地頭に任じられる。

山本一門からは豊臣時代に賤ヶ岳の七本槍の一人、加藤嘉明、江戸時代には、遠山の金さんこと、江戸町奉行遠山景元がいます。


「月百姿 山本景廉」画・月岡芳年  東京都立図書館所蔵

 源頼朝も伊豆に流されるまで、都(京都)で暮らした貴族である。
 
  頼朝の和歌はあまり取り上げるられる事はないが、13才まで都で暮らした頼朝は、和歌の手ほどきを受けた事であろう。 慈円の歌集『捨玉集』に、頼朝上洛(建久六年)の時、慈円と頼朝の間で交わされた贈答歌が三十六首収められている。慈円をして『こんな立派な問答を成し得る人はほとんど見たことがない』と言わしめている』
(『源頼政』多賀宗隼著 日本歴史学会編 吉川弘文館 平成2年)


(Wikipediaウィキペディア)から

 慈円は、平安時代末期から鎌倉時代初期の天台宗の僧。歴史書『愚管抄』を記したことで知られる。諡号は慈鎮和尚、通称に吉水僧正、また『小倉百人一首』では前大僧正慈円と紹介されている。 父は摂政関白・藤原忠通、母は藤原仲光女加賀局、摂政関白・九条兼実は同母兄にあたる。

源頼朝は東国に政権を樹立するまで、東国武士達の前で京都風・貴族的一面を見せないよう注意深く隠していた。
 
  彼が京都から呼び寄せた家人(官僚)にも同じ事を求め、華美な衣装をしていた人間を罵倒していたと言われる。その彼が上洛時に、慈円に見せた態度は貴族である頼朝の得た開放感であろう。頼朝の深層には、朝廷と並立か取り込んだ形の鎌倉幕府構想があったと信じたい。この京を知る頼朝と、知らない北条時政達との間に齟齬が生じていたのではないだろうか。頼朝の死にも暗殺説が出てくる要因になったと考える。私は頼朝以後の鎌倉幕府に興味はない、後の北条得宗家の鎌倉幕府には、源頼朝が目指した政権とは違う気がするためである。




「源頼朝石橋山旗上会議」画・歌川国芳 安政2年(1855)小田原市デジタルアーカイブ所蔵


「石橋山の朽木に霊鳩頼朝を助く」画・歌川国政(小国政) 安政二年(1896)大判三枚揃  小田原市デジタルアーカイブ所蔵


石橋山の戦いに敗れた頼朝が隠れた「鵐窟(しとどのいわや)」、名前の由来は大庭景観の追っ手が洞窟の中を覗くと中から「シトト」と鳴く鳥が表れたことから付いた。
『かつては、高さ2メートル、深さ10メートル以上の大きさがある大きな岩屋でしたが、現在は度重なる崖崩れで数十センチ程度の大きさにまでなってしまいました。しかしながら、周囲には源頼朝や土肥実平などの幟が立てられるなどされ、史跡として大切に保存・管理されています。』(真鶴ナビHPから、真鶴町真鶴)
 上記の伝承は、『天文14年(1545)に連歌師の宗牧が真鶴の鵐窟を訪れており、伝承が中世から伝わることを示している。(源平の内乱と公武政権)

 治承4年8月28日、源頼朝は真鶴岬から小舟に乗り阿房国 に渡る。以後、頼朝に参集する武士が多くなる、千葉常胤300騎、上総広常2万騎などであるが、頼朝の反乱は,地域社会に存在する在地領主間の競合や矛盾に媒介されて拡大していたのであり、かつての源氏家人が平氏打倒のために立ち上がった訳でも、すぐに以仁王の令旨(りょうじ)に従ったわけでもない。頼朝の挙兵は令旨を受け取ってから三ヶ月も過ぎていた。以仁王・源頼政の挙兵により東国の頼朝にも討伐の恐れが出たためである。(源平の内乱と公武政権)
次は隅田川を渡り鎌倉へ


八幡宮のシンボルとなった「頼朝と鳩の伝説」(苦境を知らせる白い鳩)
  伊予ヶ岳に来たとき、長狭常伴(ながさつねとも)の軍勢に待ち伏せされ、行く手を阻まれてしまう。頼朝たちは予ヶ岳によじ登り穴に身を隠しました。常伴の軍勢は、穴をめがけて盛んに矢を放ちますが、届かず地上に落ちるばかりでした。しかし、時が経てば常伴の軍勢が頼朝の隠れた穴に突入してくることは明らかです。頼朝は、部下から一枚の白紙を受け取るとそれをちぎり、神の御加護を念じながら穴の外へ飛ばしました。すると摩訶不思議(まかふしぎ)、ちぎった白紙が数羽の鳩となって東条氏のもとへ飛んでいき、急を告げたのです。まもなく駆けつけた東条の援軍のおかげで、危うく難を逃れることができました。鳩は壺井八幡宮の神使である。 (参照・南房総市ホームページ)

治承・寿永の戦いの浮世絵  源平の戦い、平氏滅亡
源頼朝と義経の軋轢・逃避行
鎌倉幕府設立へ、最後の戦い奥州合戦



「源頼朝公奥州泰衡征伐之図」画・歌川芳虎 
三枚揃い パブリックドメイン

源頼朝が独自の政権基盤を確立した戦い、奥州合戦 文治5年(1189)7月から9月
  源頼朝が武家の棟梁と認められるためにやった事は、朝廷の許可なく奥州討伐を起こし、自分が河内源氏の正統な後継者であることを認知させることであった、そのため源頼義の前九年の役を再現し、河内源氏の宿願を果たす戦いである。武士は全て源氏の家人である、ならば『この戦いに参陣せよ、参陣せねば討つ』。頼朝独自の命令で全国の武士約24万〜28万(諸説あり)を集め奥州に向かった。

江戸時代、徳川家が河内源氏に連なる事から、源頼朝は崇敬された。徳川将軍家を描くことは禁止されており、将軍は源頼朝に仮託され描かれた。上の浮世絵は奥州合戦の様子を描いたが、平安末期にはこのような城はなく、天守閣もない平城であった。天守閣が出来たのは、織田信長が造った安土城が始まりだと言う。奥州合戦を見る。 

頼朝の鎮魂 数万人の戦死者を悼む鎮魂の神社ー永福寺(ようふくじ)
 頼朝は奥州合戦終了後、全ての戦死者数万人を鎮魂するため鎌倉に永福寺(現・鎌倉市二階堂あたり)を建立する。

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