武力で奪い取る源頼朝、頼朝は下文(安堵状)による御家人統治を柱とする |
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『 あなたにとって、私たちにとって、大切なのは関東だ。京都ではない』(1180年10月20日 富士川の戦いの後)
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●源頼朝が御家人に与えた下文(くだしぶみ)である。 |
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右『佐田文書』の「源頼朝下文(くだしぶみ)」みやこ町歴史民俗博物館所蔵左『頼朝の花押は、実名の二字から「束」と「月」をとって合成してつくられている』(『全集 日本の歴史 第6巻 京・鎌倉 ふたつの王権』本郷恵子著 小学館 2008年刊 |
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●下文は武士の財産である。 土地の所有を認める下文は、簡潔な文章であるが、頼朝が出しており武士の財産であった、鎌倉幕府が成立すると初期の下文は新しい下文と取り替えられ、頼朝の花押は省略された、それに異議を唱えたのが千葉常胤ら古くからの武将達です。常胤は「頼朝の花押」を求めます、それほど権威があったのです。上は常胤に宛てられた下文です。(参照・「戦いの日本史 武士の時代を読み直す」本郷和人著 角川学芸出版 平成24年刊) ( 注)忽緒ーないがしろにする。蕁策ーはかりごと、 ●『右に花押がある文章はもっとも尊大である、権威者が下に与える文章である。将軍頼朝がご家人に与える下文である。(参照・「読めなくても大丈夫 中世の古文書入門」小島道裕著 河出書房新社) |
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鎌倉時代初期頃から武士の花押が現れる。また、武士の右筆が文章を書き、花押は本人が書くことが通例になる。戦国時代には、花押は板刻(印)となった。 | |||||||||
「寿永2年10月宣旨」で頼朝は朝廷の追認を取り付けた。 『 先日の宣旨に云(い)はく、東海・東山道等の庄公、服せざるの輩あらば、頼朝に触れ沙汰を致すべしと云々。』『十月宣旨は、東海・東山両道の荘園・国衙領を元のように荘園領主・国司に知行させると共にこの命に服従しない者があれば、頼朝に連絡して、その実力でしたがわせるという内容であり、頼朝の実力支配を前提として、東国の荘園・国衛領を中央の貴族や大寺社に回復させるものであった。』(『玉葉』寿永二年閏十月二十二日条)このことは、頼朝が行った敵方所領没収と没収地給与を朝廷が追認したということであり、それが西国にまで拡大する契機となった。 ●『沙汰未練書(さたみれんしょ)』(続群書類従・第二十五輯上) 「往昔以来、開発領主として、武家御下文を賜る人のことなり」 と記されるように、「開発領主(根本領主)、すなわち私領の実際の開発領主またはその末裔であって、その所領(根本領主)を鎌倉将軍から安堵され、主従関係のもとに結合された人々」と説明されている。(「鎌倉」の時代」福田豊彦・関 幸彦編 山川出版社 2015年刊) |
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