奥州合戦の終結後、頼朝は平泉の寺を模倣し 鎌倉に鎮魂の寺院永福寺ようふくじを建立させた

奥州合戦場の平泉で源頼朝が感動した平泉の寺を模した「永福寺」、その跡地……
  奥州合戦で平泉に入った源頼朝は、平泉の藤原清衡・基衡が創り上げた寺院群に驚嘆した。奥州の奥地に京の寺院を見たのである。この驚きが、頼朝に鎮魂の寺院を鎌倉に建立する決意をさせた。我々は頼朝が武士と思いがちである、しかし、彼は都の文化を知った軍事貴族である、平泉が素晴らしい仏教寺院であると理解した数少ない鎌倉武士であったと思われる。当時の日本で華麗な寺院があるのは、京都と平泉だけであったろう。
神奈川県鎌倉市二階堂にある史跡……
永福寺は鎌倉時代初期、源頼朝が奥州平泉にあった中尊寺の二階大堂、大長寿院だいじゅういんを模して建立した寺院で、建久三年(1192)11月25日完成、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社のひとつであった。写真は、東の山にあった経塚(鎌倉市教育委員会)
(参照・ウィキペディア)
 永福寺は、二階建てであった事から二階堂とも称された。現在、永福寺跡周辺が「二階堂」と呼ばれているのも、この建物が由来となっている。昭和58年(1983年)から開始された調査で翼廊跡などが確認された。寺跡は国の史跡に指定されている。

 源頼朝は文治5年(1185年)9月の奥州合戦を契機に、源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願する。その年の12月には永福寺の建立に着手した。建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。建久3年(1192年)11月25日に本堂が完成し落慶供養が行われた。


永福寺は、 応永12年(1405年)の火災のあと廃絶した。今の鎌倉にある二階堂が永福寺の跡である。北鎌倉駅の北東約1.8km、鎌倉市二階堂字三堂他に所在し、 南側は大きく開けているが、北・東・西の三方は、標高60m前後の山でかこまれている。(永福寺について詳しいホームページ)鎌倉市教育委員会
東の山の頂上より経塚が発見された。(上写真)
  直系1.2メートル、深さ1.2メートルの穴に渥美(愛知県渥美で作られた焼き物)の壺が据えられていた。残念なことに経典など紙類は腐ってなくなっており、詳しいことは不明です。しかし12世紀に作られたことに間違いはなく、この場所が伽藍を見下ろす正面であり、寺を一望できることから初期の源頼朝か一族の作ったものと考えられます。(参考『鎌倉の埋蔵文化財2』平成8年発掘調査の概要 鎌倉市教育委員会編)


13世紀半ば、宝治二年(1248)二月五日の記事(吾妻鏡)
『永福寺修理の話』北条時頼が修理を指揮した。 永福寺の言われを述べた中で、『陸奥・出羽を知行すべき旨、勅諚(ちょくじょう)を蒙った。これはひとえに奥州が泰衡管領の地によっている。そこで関東長久の先々の事まで思い巡らして、この人達を慰めようとして、この建立(こんりゅう)を思い立ったものである。義顕(義経)も泰衡も特に朝敵といあったものではない。これは頼朝の私事、代々の遺恨から討ち滅ぼしたものだから、その恨みを思う魂を慰めようとして思い立ったものである。(私の宿意)』永福寺は平泉諸寺を模した寺である


昭和41年(1966)、永福寺跡地を含む8万6000uが国の史跡に指定。
(参照・鎌倉市教育委員会に加筆)
源頼朝が賛美して模倣した平泉の中尊寺大長寿院と永福寺
次に大長寿院二階大堂です。中尊は四丈でその左右に4体ずつ、計8体の丈六の阿弥陀仏が安置され ていました。4丈もあるような阿弥陀仏像は例がありません。道長の法成寺も、白河天皇の法勝寺も六丈です。ですから四丈というのは、その倍以上の巨大な仏像だった。
  なぜこのような仏像を造られたのでしょうか。まず、大長寿院の立地に注目します。それは関山の山中でした。先ほど道長の法成寺は自分の屋敷のすぐ隣だと言いましたが、日常的に仏様を拝むためには、それが身近にあった方が便利でしたから、居所の近くにお堂を作るのが一般的でした。しかし、なぜか大長寿院の場合は日常の礼拝には不便な山の中に建てられます。このことは大長寿院が清衡自身の個人往生を祈るためのものではなく、たくさんの衆生の済度、極楽往生を僧侶に祈らせるための御堂だったと考えるのが妥当と思われます。』(『鎌倉の埋蔵文化財2』平成8年発掘調査の概要 鎌倉市教育委員会編)

池の形は、中尊寺にあった毛越寺遺跡を模倣したのではないか、頼朝の思い入れは強く細かい配置まで指示したと言われる。都を模した平泉中尊寺に、感嘆した頼朝が鎌倉に平泉を模した。板東の兵達はびっくりしたであろう。左の図版は、鎌倉市教育委員会制作、左の図版、鎌倉市教育委員会 CG制作/湘南工科大学)

平安末期、奥州平泉の中尊寺毛越寺遺跡と大長寿院の位置


図はNHKブックス『平泉の世紀』高橋富雄著 日本放送出版会 1999年


図は毛越寺庭園と観自在王院庭園の推定配置図である。(平泉遺跡調査会・平泉町教育委員会)拡大表示

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