源義経の史実と伝承、日本人最大の英雄・義経伝承の浮世絵

ー源義経の生涯(略伝)ー

上の絵は、奥州平泉中尊寺に所蔵されている源義経像である、私は好きではない。悲劇の英雄や天才的な戦略家には見えない、弱い貴族の姿である。藤原秀衡が自分の死後は義経に軍事を任せろと遺言したと言われるが、この肖像画では、奥州の命運を委ねる人物には見えない。江戸時代に歌川国芳が描いた義経や、明治の奇才月岡芳年の牛若丸のイメージに劣る。
源義経の実像は不確かな事が多く、ほとんどが伝説・伝承と言って良い。わずかな史実と伝承を検証して、何故か悲劇の英雄となって、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉を生んだ。
中尊寺の義経像について
 伝わるところによれば、この肖像画は江戸時代に画がかれたと言われる。一説によれば下絵があり、それを見て描いたようである、英雄ではなく生身の義経像である。
源義経の略歴 わずか30年の短い人生の軌跡
父・源義朝は平治の乱で斬首された。母は九条院雑仕常磐(常葉)。幼名は牛若。または九郎と称した。左の浮世絵は、母常磐に抱かれさまよう姿である

運命に翻弄される絶世の美女常磐
 伝承によれば、近衛天皇の中宮・九条院(藤原呈子)の雑仕女(ぞうしめ)であった言う。源義朝の側室になり、今若(後の阿野全成)、乙若(後の義円)、そして牛若(後の源義経)を産む。義朝斬首の後、美女ゆえに大蔵卿一条長成との間に一条能成(長寛2年(1163年)生 従三位)や女子(生誕時期不明)を産んだ。
『義経記』(室町時代に成立)
常磐に邪な心を抱いた平清盛が自分の妾になれば子供の命を助けると文を寄こし、返事を強要したという。また、『平治物語』によれば、清盛の女子を産んだと言うが定かではない。これ以後も数々の常磐物語が創られ、母の子供を思う心や美人の儚さを物語る。
『皇国二十四功 常磐御前』画・太蘇芳年 (月岡芳年)明治14年 国立国会図書館所蔵
 この浮世絵は、平清盛が常磐御前に文の返事を迫る場面ではないかと思われる。


『黄瀬川陣』昭和15/16年 彩色・紙本・屏風6曲・1双 各167.7×374.0 右隻右下に安田靫彦の落款、印章; 左隻左下に印章  左隻: 紀元2600年奉祝美術展(「義経参着」)/右隻: 28回再興院展(東京府美術館 1940/41) ( 東京国立近代美術館所蔵)

兄頼朝との対面…黄瀬川の対面 (安田靫彦・画)
  義経が頼朝との対面をしたのが、駿河国の黄瀬川(現在の静岡県駿東郡清水町 八幡神社)である。この時、義経が連れてきた武者が問題になる。『平家物語』のひとつ『源平闘諍録』巻第五ではわずか20騎という、別の平家物語では、対面場所を「相模の大庭野」(神奈川県藤沢市)とし、連れてきた武者も800騎と書く、この数字が本当ならば、頼朝の所に集まった東国武士の中でも有数である。治承四年10月21日の「吾妻鏡」では、頼朝は義経との対面を喜んだとある、連れてきた武者数の記述はない。おそらく驚くほどの人数ではなかったと考えられる。
 上は日本画家・安田靫彦氏の『黄瀬川陣』である。情緒高く描き切った作品である。画伯は時代考証に厳しく、義経の出立ちは、平安時代、戦いは騎射が中心である事を見事に表している。日本人が持つ歴史日本画のイメージは氏が創り上げたものである。
安田靫彦氏の創り上げた義経像である。凜々しい若武者の姿は、理想化された武者(軍人)であり、暴力装置を振るう武者を肯定する雰囲気(イメージ)が造られた。第二次大戦間近の作品である。
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