頼朝の挙兵から平氏滅亡の壇之浦の戦いまで、源平の戦いは水との戦いだった

  錦絵『隅田川筏渡ノ図』治承五年(1181年)…頼朝軍隅田川を渡り鎌倉へ。

「隅田川筏渡之図」朝桜楼国芳(歌川国芳)版元・泉市 嘉永五年(1852)頃  ボストン美術館所蔵 部分拡大

平家打倒の旗揚げの戦いに敗れ、千葉に逃れた源頼朝は、
千葉介常胤の助けをかり再起を計る。鎌倉に向かうため隅田川を渡る頼朝軍。 この時、秩父流平氏である江戸重長が頼朝に服従せず、入江を挟んでにらみ合ったと言われるが、治承4年(1180)10月2日、頼朝は隅田川を舟で渡河する、軍勢二万数千騎はやや下流の浅瀬を渡河したようである。(一回目の渡河)4日には、当時、入り江であった滝野川に架かる長井渡(地図番号−1)を浮橋で渡り(2回目の渡河)、板橋へと進み、武蔵の国府(府中)から相模国に入り、7日鎌倉に到着した。
 
また『義経記(ぎけいき)』によると洪水により5日間足止めされたという。その後4日、江戸重長が参陣すると船を集め、船橋を造るように命じたと言われる。その3日後に完成した船橋を頼朝の軍勢は渡ったと言われる。彼の釈明によると、重長が以前に討った三浦義明の子義澄が頼朝の陣営にいたからということであった。頼朝は義澄を説得してから、重長の参陣を許した。浮世絵は、10月2日の長江入江渡河の様子を描いたものであろう。舟の上に板を並べ、筏状にした舟を連結して漕ぐ様子である。


『義経記(ぎけいき)第三巻・七頼朝謀反の事』
『佐殿仰せられけるは、「江戸太郎八箇国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢この二三日水に堰かれて渡しかねたるに、水の渡に浮橋を組んで、頼朝が勢武蔵国王子・板橋に著けよ」とぞ宣ひける。』
 
『江戸太郎承りて、「首を召さるとも争か渡すべき」と申す処に、千葉介葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや江戸太郎助けん」とて、両人が知行所、今井・栗河・亀無・牛島と申す所より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す所は、江戸太郎が知行所なり、折節西国舟の著きたるを数千艘取寄せ、三日が内に浮橋を組んで、江戸太郎に合力す。佐殿〔御覧じ〕、神妙なる由仰せられ、さてこそ太日・墨田打越えて、板橋に著き給ひけり。』


ー源頼朝は、どのあたりで隅田川を渡河したのかー
治承4年(1180)10月2日、頼朝は隅田川を渡河する。
  再起を起して鎌倉に向かう源頼朝が隅田川を渡ったのは、現在の白鬚橋より北側の牛島あたりの「長井渡」である。入間川の泥が堆積して千束池と泥地を造りあげていた。上総国から奥州街道を経て、水面に舟を並べ舟橋を造り渡河した。
また別の説では、舟を並べ大きな筏を造り渡河したという、その情景が上の浮世絵である。(『吾妻鏡』治承4年(1180)10月、「太井・墨田の両河を渡らるる」)拡大表示

奥州街道とは、鎌倉から多摩川を「平間渡し」か「丸子渡し」で渡り、大井を経て両国あたりで右に分かれ奥州に向かう下ノ道である。また、渡河して鎌倉に向かう道は、奥州古道の上ノ道であり、府中を通り鎌倉に向かう。(図参照・「古代で遊ぼ」HP)  詳しいホームページ紹介