挙兵以来、河内源氏の祖頼信からの宿意、藤原氏討伐の奥州合戦に出発する


奥州合戦への準備ー『吾妻鏡』 文治五年(1190)六月二十四日、奥州征伐旗の調進を千葉常胤に命じる。源頼朝が奥州征伐を決意する。


『源頼朝は1189(文治五)年の奥州合戦に際し、旗の寸法から合戦の日程まで、前九年の役における頼義の故実を踏襲している。』(『日本史リブレット人『源義家 天下第一の武勇士』野口 実著 山川出版社 2012年)(参照・11.義家の旗)、奥州征伐旗の調進を千葉常胤に命じる

頼朝は東国に残る「頼義・義家伝承」のイメージをフルに活用した。その頼朝に現実に力を与えたのが、平氏討伐による平氏の所領すべてを頼朝に与えるという後白河院の言質を引き出した事による。これにより頼朝は大きな荘園領主となった。

奥州征伐を後白河法皇に奏上したが拒否された 、頼朝は義経を匿う藤原氏を討つとしたが、本当は先祖の源頼義・義家親子の奥州を支配するという夢(武門源氏の宿意)を実現する目的があった。あり体に言えば、豊かな奥州の富を奪う目的である。これが河内源氏の長年の宿意である。

文治五年(1190)六月卅日、『奥州征伐、景能に意見を聞く』(吾妻鏡)の記述から
 頼朝は、朝廷に奥州追討の宣旨を求めたが返事がないまま、6月末に大庭平太郎景能(古老)に宣旨がまだ無い事を相談する、すると古老は曰く。

『軍中将軍の令を聞き、天子の詔を聞かずと云々。すでに奏聞を経らるるの上は、あながちにその左右を待たしめたまふべからず。随つて泰衡は累代御家人の遺跡(ゆいせき)を受け継ぐ者なり。綸旨(りんし)を下されずといえども、治罰を加へたまはんこと何事かあらんや。』(『全訳 吾妻鏡 第二巻』訳注者 貴志正造 新人物往来社発行 昭和51年刊)
と答へ、自分の家来を誅するのに天子の許可は必要ない、すでに軍勢を集めているのに待つのは皆に動揺を与える。と頼朝の決断を促した。頼朝も決断して奥州追討軍の部署を定め進軍を命じる。 全国の武士に動員をかけ、一説には27万から28万を越える軍勢を集め奥州に向かった。

源頼朝は奥州合戦を武家政権樹立の最後の戦いと位置ずけ、全国の武士に動員をかけた、敵対した敗者にも参加を促し、働きによっては罪を減ずるとし、一説には、24万人を越える軍が平泉に押し寄せた。朝廷の命令なく、源頼朝のみの命令により、全国の武士が参集したのである。
奥州へ三軍の進軍路を決める。吾妻鏡 奥州追討の部署を定める)

奥州討伐後……鎌倉幕府の基礎を築く。

  頼朝は奥州を鎌倉幕府の直轄領として黄金や良馬を手に入れた。また、鎌倉幕府を開くと奥州経営には重要な常陸国の不祥事につけ込み、多気大掾氏から大掾氏(官位)を取り上げ、同族の吉田一族に与えた。これより(多気大掾氏の系図)

頼朝はこの奥州追討の成功により鎌倉幕府の基礎を造ったように思う。朝廷の綸旨が無くても頼朝の号令で日本各地から大軍を集めることが出来た、また、日和見や無視して出てこなかった一族の所領(在地領主)を取り上げ、御家人達に分け与える事が出来た。すでに滅ぼした平氏の所領(平氏没官領)は、朝廷より頼朝に与えられた。頼朝の所領分配に朝廷は口を挟むことが出来なかった。朝廷に頼朝に対抗できる軍事貴族が、平氏の滅亡によりいなくなったからである。

 
頼朝は武士の棟梁として鎌倉幕府を開き、足利幕府、徳川幕府が滅びるまで武士政権が始まったのである。その始まりになったのが六郷の旗揚げである。おそらく多気大掾氏一族に「兵を集め、我々の到着を待て」との連絡を送るため、六郷で水運を扱う行方氏庶流に命ずるためと武蔵野国の武士の集合を待つためであった。(私見)

源頼朝の奥州平泉の経営……頼朝は単なる武将ではない、智略の政治家である。
平泉に頼朝は大勢の記録担当官を同行した、これは「吾妻鏡」に記載されている。


1. 文治五年9月14日、奥州両国の土地台帳(民部省帳・太田文等)は平泉政庁に保管されていたが、四代泰衡が逃亡の際に火をかけ焼失している。担当の豊前介実俊(ぶぜんのすけさねとし)・弟橘藤五実昌(きつとうご さねまさ)が造った当事者であり、地勢図を諳んじていた。復元は三項目を残して全て復元された。頼朝は二人を家人に取り立てた。
2. 頼朝は奥州の経営を替えることなく、平泉政権のままに進めるように命じた。平泉は頼朝が舌を巻くほど高度な法治行政であり、これを鎌倉支配の先例とした。朝廷に荘園の税を納めても充分の利益が出る仕組みだった。
3. 建久元年(1190)「陸奥留守職」に伊沢家景、葛西清重の検断権(検察権)と合わせて「奥州惣奉行」と呼ばれた。
4. 平泉泰衡管領のあとを継承して「鎌倉管領」になったのである。

頼朝は奥州を手に入れたことにより、頼朝権力の基礎を固め、朝廷への対応も余福を持ったものになった。
源頼朝は東国の武威(武力)と、国を治める仕組みを知る官使を、京から連れてきて鎌倉幕府を造りあげた。平清盛のように都の貴族や寺領の荘園を簒奪して恨みを買うのではなく、平泉のように荘園を保護して、朝廷・貴族の恨みを受けることを避けた。東国の武士達も戦うことは得意であったが、幕府を造るというような政権のグランドデザインを描くことは出来なかった、ここに頼朝が武士の棟梁に祭り上げられた要因のひとつがある

 武士は三つの権門、貴族・寺社・武士の中でいちだんと低い地位であったが、天皇や摂関家の権力争いで武力が決定権を持つようになり、保元・平治の乱で武士の地位が上がり、平清盛で後白河院(治天の君)を幽閉し、権力を手中に収めた、初めての武士政権である。この時、清盛は朝廷の中に入り政権を維持したが、平氏を滅亡させた源頼朝は朝廷の命なく、奥州平泉を滅亡させ奪い取った。朝廷に対抗する武士政権の誕生である。

奥州討伐後、参陣を見合わせた領主の所領を没収した。また出発前には、平氏討伐で敵になった武士に、「奥州討伐に参陣すれば罪を許す」と宣言して兵を集めた。源頼朝は意識して頼義・義家伝承を広めた。都内の各地に源頼朝が造営を命じたとする八幡様があるが、その殆どが奥州討伐後の伝承である。六郷の「六郷八幡神社」創建は確かな史実である。
 
1191年(建久二年)、家臣の梶原景時に命じて社殿を造営させた。頼朝自身も手水石を寄進した、梶原景時も太鼓橋を寄進した。源頼朝伝承の八幡様は関東各地にあるが、六郷神社伝承は源頼義・義家の伝承もあり、確かな史実と考える。(吾妻鏡)

建久三年(1192)、頼朝が征夷大将軍になる、後白河院の死後、平泉滅亡の3年後の事である。

12月12日、大蔵館に移徒(いし)の儀を行う。出仕した御家人311人である。実質的な鎌倉幕府武士政権の発足である。

『従来、頼朝は臨戦体制下に設置されて天皇大権を代行しうる「征夷大将軍」の官職を望んだように考えられていたが、これは誤りであった。』(国文学者 櫻井陽子氏)
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