内川の役割、上流は灌漑の水として、下流は主に海苔の
ベカ船の交通路として使われた

内川の始まりはどこか……写真で見る内川の跡
 
  昔から北馬込・中馬込・南馬込などの人達は、内川を馬込九十九谷の湧水が集まり流れ込んだ小川であると考えていた。源流地図
 
縄文の頃、宮下あたりの台地(中馬込一帯)には、いたる所に湧水があり、この水を古代縄文・弥生人達は飲み水として使用していた。その頃、このあたりの谷は海進により浅い海辺であり、貝などの採種場所であったらしい。その証拠として明治42年(1909)には中馬込や根方に貝塚が発見され「馬篭貝塚」と命名された。明治の頃、この馬籠貝塚は江見水陰の冒険小説で発掘ブームを生みました。
 
  明治の小説家江見水蔭(本名江美忠巧)が『探検実記 地中の秘密』(明治42年 博聞館)や『三千年前』(大正6年実業日本)を発表すると、大勢の考古学ファンがやって来て発掘ブームになった。調査が充分に成されないまま考古ファンにより採掘され、のち宅地化により貝塚はなくなった。学者によっては、「珍品あさり」「盗掘まがいの濫掘行為を江見水蔭が招いた」と非難する人がいるが、当時の時代(考古学の黎明期)を考えると、彼の小説が考古意識を啓蒙したと評価することが大事であると私は考える。
 
内川は大正・昭和初期時代には飲み水を採取した生活の川である。そのため取水量が増え、土地が開けて宅地化が進むと急速に水量を減らしたようだ。昭和30年代には南馬込あたりでも川幅は2メートルほどになり、生活排水や町工場の廃棄物が流れ込み、小川は排水路となっていった。
  品鶴線の工事で線路土手にトンネルを造り、内川の流れを確保したが川幅は細り、元は4キロほどの長さがあったが、現在は1.55キロほどの2級河川である。JR 線までの内川は昭和46年(1971)から51年(1976)にかけて暗渠化された。

改修後に「新川」と言われ、流れを変えた新内川
  大正5年(1916)、大田区で耕地整理が始まった頃、蛇行していた内川の流れを真っ直ぐにして、海苔採取のベカ船が航行出来る川にしたいと住民の要望が起きました。そのためには、土地の取得が必要になるため地権者との話し合いが必要となります、 耕地整理組合で議論の末、新しい内川を掘ることが決まりました。 その結果、大正6年(1931)に内川は、JR線路から第一国道あたりまで真っ直ぐな河川として新しく掘られました。地元の人達は、新しい内川を「新川」と言っていました。


大森 海苔のふるさと館
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