明治生まれの快男児、ドードー研究の蜂須賀家18代・侯爵
蜂須賀正氏(まさうじ)

蜂須賀正氏に影響を与えた幕末江戸の見世物興行……
 
  蜂須賀正氏は、明治36年(1903)2月15日生まれ、阿波・徳島藩25万7千石の16代当主であり侯爵である。江戸時代、徳川幕府の基礎が固まり平和で太平な時代には、大名や大身旗本・豪商などの好事家に、長崎を通して持ち込まれる外国の動物・鳥類を持つことが流行した。高価であり権力や富の象徴として持つことが流行した。特に鳥類は他の動物と比較しても輸入しやすく、古来より数多くが持ち込まれた。特に、八代将軍吉宗は好奇心が強く、唐人より献上された象を長崎から一年がかりで江戸まで運ばせた(詳細を見る)。鎖国であったが、将軍吉宗が積極的に外国の文化を輸入したため、享保時代の好奇心は、文化・文政時代を経て幕末まで受け継がれた。文化・文政時代より珍しいオウムなどが珍重され、それらを手に出来ない庶民の間には、メジロやウグイスの声などを競わせる事が流行した。

(注)正氏(まさうじ)に敬称の氏を付けると紛らわしいので、申し訳ないが氏は省いた。

  また天保の改革が挫折したのちは、浅草の奥山を中心に両国河岸で、幕府許可による見世物小屋が、江戸庶民の娯楽場所の中心であった。今と違い娯楽の少ないない時代であったので、娯楽と言えば芝居見物や祭り・見世物小屋見物が主なものであった、しかし歌舞伎見物は高価で、庶民の裕福な商家でなければ見ることは出来なかった。一番手軽で見ることが出来たのは見世物見物である。
  見世物には、曲芸、籠細工など細工もの、珍奇な動物(舶来の珍重)、鳥・ラクダ・ゾウ・ヒクイドリ・ヤマアラシ・虎・豹など未知のものがあり、珍奇な動物・鳥が大人気である。おそらく蜂須賀家江戸藩邸で育った蜂須賀正氏の父や祖父は、子供の頃から、好奇心旺盛で見世物見物に出かけたのであろう。(見世物詳細ページへ)

  明治になると華族となった旧大名や宮家がそれらの伝統を受け継ぎ、広大な庭に鳥を飼ったり、やって来る野鳥を観察する華族も現れた。鳥の侯爵と呼ばれた鷹司信輔、山科鳥類研究所を作った山科芳麿侯爵、トキ博士と言われた池田真次郎男爵などが知られている。蜂須賀正氏も自分の庭に白いクジャクを飼っていたと言われる。日本の鳥類学は彼らから生まれたのである。

  見世物も明治になると文明開化を旗印に、ますます隆盛した、長崎からの輸入ではなく、横濱からの輸入で有り、江戸時代より早く珍奇なものを見ることが出来た。また鎖国がなくなり、松本喜三郎の「生き人形」も外国に紹介されて驚かれた。明治になり、見世物興行が大きく変わったのが、迷信や妄想から離れ科学的・教育的面が強調され、明治の中期には上野動物も開園して、世の中が科学に大きな関心を持つ時代になったことである。蜂須賀正氏も科学少年の先駆けであったと思われる。


廃仏毀釈を始めとする明治政府の江戸文化否定 (詳細ページへ)  
浮世絵に見られるように、江戸で咲いた文化は海外流失が激しく、残念なことに良い物ほど日本に残っていない。明治初期の廃仏毀釈が、神仏混合を否定して、広くは江戸に咲いた文化全般を低く見た。特に寺の仏像・経典は破棄され、経典はわずかな金を得るため燃やされた。京・奈良の大寺さへ、生き残る事で精一杯で、寺の修理も出来ない状態に追い込まれた。あの法隆寺でさへ、皇室に援助を求めるために寺宝を献上したのである。

 明治に外国から技術を導入するため招聘されたのが「お雇い外国人」と言われる欧米人である。彼らは高額な報酬で招かれた、
当時の明治政府高官と同等の報酬であった。彼らは本国でもエリートであり、教養も学識も好奇心もあった。彼らが打ち捨てられた仏像・絵画や浮世絵を見たとき、日本人以上に価値を見いだし購入した。貰った高給をもって買いあさったと言って良い。浮世絵に代表されるように良い物は全て外国にあると言って良い。また、彼らは美術品だけでなく、日常雑器まで、あらゆる江戸文化を収集して祖国に持ち帰った。江戸時代のシーボルト、明治のモースのコレクションがその代表である。その中には、浅草奥山で見世物小屋で興行された生き人形(モースコレクション)も含まれている。

イギリス・ケンブリッジのモーダリン・カレッジに入学した蜂須賀正氏
 
蜂須賀正氏は、見世物の本場であるイギリスに着くと鳥への情熱を益々燃やし、大英博物館・古書店など本場イギリスの場で勉学にいそしんだ(1921年入学)。大銀行家ロスチャイルドとの関わりから絶滅鳥ドードーの研究にのめり込んだ。ケンブリッジの卒業論文は日本伝来の架空な鳥『鳳凰』についてであった。イギリスでの様子は彼の著書『世界の涯』(1950年)に詳しいが、絶版で見ることが出来ない。

フィリピンの最高峰アポ山への登頂
 
  1929年((昭和4)、フィリピン・ミンダナオ島にある最高峰アポ山(2954メートル)へ鳥類調査が目的の登頂を目指した。2月1日、総勢40人の探険隊は出発した。2月11日に登頂した蜂須賀正氏は頂上の石に『ハチスカ 11 2 1929』と刻んだ。アポ山の登頂後サンボアンガなどの島内を巡り最後は航路にてダバオに帰着した。この探険は『南の探険』(1943年)として出版された。彼のフィリピン探険は前年に発足した日本生物地理学会に大きな成果を上げたいという意識があったようである。フィリピンのこの地域は生物学的に有望な場所であり、日本の新聞でも『蜂須賀正氏が南の島に「有尾人」(尾のある人)を探しに行く』と興味本位に書かれたが、彼の真意は学問的な探険で新聞記事には不満を漏らしていたと言われる。


先駆的研究であった絶滅鳥ドードーの研究
 1934年(昭和9)より絶滅鳥ドードーの研究を始める。ドードーの実物標本は、アシュモール博物館に頭と脚などわずかな物しかない、そこで蜂須賀正氏がとった研究方法は、文献を集め、残された画を比較して研究することであった。彼は大英博物館の書庫から『アイル・オブ・パイン』(松の島=モーリシャス島の古名)という小冊子見つけた。おそらくオランダの難破船船員の記録であったと思われる。それらの研究から蜂須賀正氏はドードーの「白ドードー」を新種として位置ずけ認めるように主張したが受け入れられなかった。ドードーは江戸時代の長崎出島にやって来たか。

 蜂須賀正氏の発表された論文は、戦後、イギリスで友人であるウェザビー(鳥類学者)経営の出版社から出版された。大型の豪華本である。初版は485部で、和名『ドードーとその一族』で知られている。この本を現在所有しているのは、山科鳥類研究所(NO.166番)、北海道大学、国会図書館の三者であろう。国立国会図書館所蔵の本は、劣化が激しく、複写・閲覧が禁止されている。諦めていると、
小野塚力氏より複写コピーを頂いた、感謝して調査後掲載致します。

 国会図書館所蔵
  タイトル・The dodo and kindred birds; or, The extinct birds of the Mascarene Islands.出版事項London : H. F. & G. Witherby, 1953.
注記"Number of copies ... limited to four hundred and eighty-five ... no. 74." Includes index.

(注)現在、上記の本は破損により複写不可となっており、複写をすることが出来ない。残念である。2012.05.19

この論文は、蜂須賀正氏の研究家である小野塚力氏が、翻訳を始めており、
同人誌『片影』2号にて発表されている。左が幻影文芸雑誌「片影」2号、
2010年 春 出版である。限定100部で下記アドレスのwebで購入することが出来る。

《考察の方向 目次》2019 
『ドードー鳥とその近縁種』は46ページから53ページ、元本は国会図書館にあるが劣化が激しいためコピーは出来ない。小野塚氏は翻訳に大変苦労されている、
蜂須賀正氏の著書》
「南の探険」千歳書房 1943年「世界の涯」酣灯社 1950年
「密林の神秘、熱帯に奇鳥珍獣を求めて」法政大学出版局 1954年
南の探険」平凡社 平凡社ライブラリー 2006年
海南島鳥類目録 日本鳥学叢書 代15編」日本鳥類学会 1939年>