ー明治政府が急ぐ近代化への道ー……国家神道の確率
2014.01.21


《明治政府のおこなった、宗教政策の大転換………


明治政府は王政復古の号令のもとに、祭政一致を目指して、神社を国家統合の機関にしようと意図した。天皇の政治支配を正当化する根拠を「記紀神話」に求めたのである。神道だけが、ただひとつの国教として正当化した。森元総理ではないが「日本は神の国」であったのである。

 幼い天皇(当時15才)を補弼(ほしつ)している人々が、政治を壟断(ろうだん)しているという批判に対抗するため、天皇みずからが、政治をするという体制を整える必要があったのである。そのため「王政復古」「祭政一致」の実現をめざした。

《神祇官(じんぎかん)を再興と神仏判然の沙汰…… 》
明治元年(1868)3月13日、「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が出された。全国神社の神職は、神祇官の管理化に置かれたのである。神社が国民の戸籍を扱う国家機関のひとつとなったのである。

 明治政府は、祭政一致を実現するためにも、諸社と諸祭奠の調査を行うことになった。明治元年(1868)12月20日、「延喜式神名帳所載諸国大小神社」の取り調べを府藩県に命じ、「式外ニテモ大社之分旦即今府藩県側近等ニテ崇敬之神社」についても同様に申し出ることを命じた。

 明治2年6月10日の「神職神葬祭」、「神職継目」など主要神社精査に関する通達、その後、15項目に渡る調査票につながるのである。慶応4年3月以降に出された「神仏分離」の諸布告である。(大田区の例はこちら)


《神仏判然の沙汰が生んだ過激な廃仏毀釈の動き……》

権現、明神、菩薩などの仏教的な神号を廃止すること、神社から本地の仏像を取り除き、仏具を神社に置くことが禁止された。この政策は仏教を廃し、釈迦の全てを否定して壊す「廃仏毀釈」となり、これまで、僧侶の下に置かれていた神官が政府の威をかりて廃仏毀釈に走ったのである。明治3年(1870)から4年にかけて頂点に達した。これらの政策により宗教界は大混乱となった。

 特に有名なのが比叡山麓坂本の「日吉山王社の事件」である。慶応4年4月1日(1868年)、日吉社へ120人ほどが押し寄せ、神殿に侵入、仏像、仏具、経典などを破壊した。廃仏毀釈の最初の暴挙である。

 また、興福寺でも僧侶全部が神主になり仏像や伽藍を破壊した、五重塔も金具を取ることだけで売られ、焼かれようとしたが、延焼をおそれた近隣の住民の反対で中止されたという。
これらの動きは全国に広がり、藩ごとに強行された。富山藩では、領内の1635寺ほどあった寺を6寺までしようとする凄まじいものである 。伊勢神宮のある地方では、196箇所の寺が廃寺にされ仏像は捨てられたりした。

 明治元年末以降、強力な廃仏毀釈が行われた藩は、隠岐、佐渡、薩摩藩、土佐藩、平戸藩、延岡藩、苗木藩、富山藩、松本藩などである。特に明治維新を起こした藩では、民衆の参加も狂信的で仏像を始め、仏具、仏画、絵巻物、経典、など全てが破壊された。そのため、今でも九州地方には、有力な大寺はない。この時、破却、廃寺された寺は、全国の半分に上がったという。しかしはっきりした数は把握されていない・
 しかし、政府にとっても江戸開城の前であり、仏教界の動向が必要な時期でもあるため、過激すぎた首謀者は処罰された。明治まで、仏教の下におかれた感のある神職達が、政府に迎合する形で暴発したのが真実であろう。。
廃仏毀釈は、明治初年(1868)から4年(1871)頃まで荒れたが、廃藩置県の施行と共に、仏教を長年信じてきた民衆の抵抗に遭い頓挫していった。

〈廃仏毀釈と仏教界の衝撃…〉  
廃仏毀釈が仏教に与えた衝撃は大きかった。しかし、出来たばかりの新政府が脆弱な基盤のため、仏教界の協力を必要としていたことも事実である。両本願寺、特に西本願寺は、鳥羽伏見の戦いの前から朝廷に忠誠を誓い、鳥羽伏見の戦いの際には、御所猿ケ辻の警備を命じられた。また、東本願寺は戦いの前に朝廷側についた。維新政府にとって両本願寺からの莫大な献金はありがたかった。太政官が真宗各派にたいして廃仏の意志のないことを明言したのである。真宗は神仏分離や寺領上知(じょうち)の影響を受けなかった、ただひとつの宗教である。廃仏毀釈の吹き荒れた地方でも真宗の寺は抵抗した。

〈明治4年に出た「寺領上知(じょうち)の令」……〉  
これは古来よりあった寺の領地を全て取り上げ、経済的な面から寺を追いつめた。古い大寺ほど徳川家を始めとする大名家から寄進を受けていた。古都奈良の寺や全国の由緒ある寺が、一気に食べていく手段を失ったのである。そのため、寺は内部から崩壊して、神職に走るものや、仏像や寺宝を持ち出すものなどが後を絶たなかった。ここからも多くの美術品の流失が始まったのである。

江戸時代の大和にあった寺の石高……
 興福寺15033石、東大寺2211石、一乗院1491石、法隆寺1000石、吉野蔵王堂1000石、内山永久寺971石、大乗院914石などである。

大田区にも多くの寺領があった。私の住んでいる南馬込の環七あたりは芝の増上寺の寺領であったという。この上令により僧侶達の動揺は凄まじく、食べるために僧侶を捨てる過激な廃仏毀釈に走ったのである。


明治初年頃の廃仏毀釈の嵐は、法隆寺ほどの大寺でも例外でなかった。  
『廃仏毀釈の嵐が吹き荒れる明治初年の混乱期に、多くの寺院から貴重な宝物が流失した。法隆寺でも、橘婦人厨子の二枚の扉、五重塔塑像、舞楽面などが失われた。』『明治8年に、正倉院や法隆寺の宝物を中心にした古美術博覧会が、東大寺大仏殿の回廊を会場に開催された。』『法隆寺では、これを機に、展観の寺宝を皇室へ献納し、下賜金により法隆寺復興をすすめめようという気運が高まった。』(『芸術新潮 皇室をめぐる名品物語』新潮社 1986年11月号)上記の寺領上知令により、領地を失った法隆寺は、寺の修理も出来ないほど困窮していた。

『明治11年2月18日、宝物献納は受理され、その報酬として1万円が下賜された。』、『当時の記録によれば、献納されたのは、「衲袈裟以下百五十六件、外に塵芥小切十三櫃、長持二棹」で、これらの宝物は献納決定の翌月に、帝室御物として正倉院に仮納された。』これらの御物は、昭和33年(1958)に帝室から東京国立博物館に移管され、昭和37年(1962)に法隆寺宝物殿が造られて展示されている。

「芸術新潮 皇室をめぐる名品物語」新潮社 1968年11月号

法隆寺献納御物展目録」奈良国立博物館 1955年

日本型政教分離による国家神道
 明治4年(1871)の欧米を訪問した岩倉使節団(右写真)は、訪問する各国でキリスト教迫害について抗議を受けた。明治政府は浦上キリシタンの弾圧を中止した。明治6年キリスト教禁止令が解かれた。 また、各宗派の上に立つという神道はなくなり、明治15年に神官は葬儀に関与しないことになり、神道非宗教説に立つ国家神道が成立した。

岩倉使節団のロンドン訪問は4ヶ月に及んだ、この時、ロンドン万国博覧会で創られた公式報告と出陳品カタログは、発明されたばかりの写真器を使い記録されたという、使節団もこのカタログを購入した。国立国会図書館にも博覧会のサイトがあります。

戻る