《江戸時代の見世物……異国からの珍奇な動物や綺麗な鳥》

「ラクダの見世物」絵・歌川国安、文政7年(1836)
版元・森屋治兵衛、大判錦絵2枚揃い
 


『文政4年(1821)にオランダ船が長崎に舶載し、大阪では文政6年に、江戸では文政7年に見世物となり、話題騒然となった。』川添 裕(別冊太陽「見世物はおもしろい」2003年6月)アラビア産のヒトコブラクダ2頭の牡牝である。日本人が唐人の格好をして、銅鑼やトライアングルを敲き、如何にも異国からの渡来と盛り上げた。『一般に舶来動物の見世物では、疱瘡麻疹除けを典型として、種々の「ご利益」が説かれることが多い』(同書)。ラクダ興行は、浅草寺側の西両国で行われた。ラクダを見るだけでと思われるが、日本でもパンダが来たときの騒ぎを思い出せば、我々にも江戸人の遺伝子(D N A)が、立派に受け継がれているのである

「浅草奥山にて興行」絵・歌川国重、版元・小玉弥七 国立国会図書館デジタル化資料 (左側)
「西両国興行」絵・歌川芳冨、万延元年(1860)7月、版元・綱島亀吉 彫師・小泉彫兼、説明文・仮名垣魯文

象の見世物……
 
 
日本人と象の出会いは早く室町時代頃らしいが、江戸に来たのは、好奇心旺盛な八代将軍吉宗の時である。享保13年(1728)6月7日、今のベトナムから牡雌2頭の象が長崎にやって来た。その知らせを受けた吉宗は、江戸に連れて来るように命じた、牡は直ぐに死亡したが牝は長崎から江戸へ歩いてやって来た。途中の京では、天皇も御覧になった、この時、拝謁するため官位を贈呈された。象の歩いた道には、象にちなんだ挿話が残された。急坂には「象なき坂」など、象も泣いて登った坂である。一年を超えて江戸に着いた象は、江戸城に入り吉宗に上覧され、その後、現在の浜離宮で飼育されたが、暴れて番人を殺すなど事故があり、中野に幕府直営の象舎をつくり払い下げとなった。飼育され江戸庶民にも見物が許された。象は病に効く薬と言われ、汚い話だが排便さえ漢方薬として使用された。死亡した後は、世話をした中野村の源助に下げ渡され、見世物になったようである。その骨や皮は中野区が保管している。(参考・『象の旅 長崎から江戸へ』石坂昌三著 新潮社 1992年刊)

文久3年(1863)にも両国西側で象の興行が行われた。三才の牝象で歌川芳豊が浮世絵にしている。題は『中天竺馬爾加国出生新渡舶来大象之図』仮名垣魯文が説明文を書いている。幕末の興行では大ヒットで、早速、歌舞伎に取り入れられた、翌年の市村座で『恋討つ文殊知恵輪』に水茶屋を取り入れ、遊女江口が普賢菩薩の化身である白象に乗って現れる趣向である。(参考・『江戸の見世物』川添 裕著 岩波新書 2000年刊)

明治になると、上記浮世絵のように象の興行もあるが、江戸時代と違い微妙な変化が現れる、教育的見地に変わり病気が治るなどの効用は謳われなくなった。また、数種の動物を見せるサーカスのような方向に向かい始めた。明治15年には、上野公園に上野動物園が開園した。しかし時代は変われど見たことのない動物への好奇心は強く、パンダの時の熱狂はすさまじかった。象は人気のある動物で、戦後、上野動物園にインドのネール首相から、象を送られたときの熱狂を思い出す。私も仕事で上野動物園の象舎に撮影で入ったが、象は賢く係員に連れ出されて、遠くから自分の巣(住まい)に侵入する人間(私たち)を睨んでいた。その目は優しい目ではなく猛獣な動物の目であった。


今も昔も浅草は娯楽の場所 
親子ずれで見る見世物小屋
浮世絵
大曲馬見物ー歌川国芳

「今昔未見 生物猛虎真図」絵・河鍋曉斎、万延元年(1860)版元・恵比寿屋庄七 説明文・仮名垣魯文 
虎となっているが豹である。将軍も御覧になり、『武江年表』斉藤月岑にも豹だと記載あり。 国立国会図書館デジタル化資料 

国立国会図書館デジタル化資料 

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