●イギリスの博物館誕生
16世紀までのイギリスは知的な面から見ると後進国であったといってよい。中世の教会は民衆にとって聖人の遺品や不思議なものが見られる博物館と言うべきものであった。信者を教化するため、教会もそれら宝物を利用したのである。この関係が崩れていったのは、ヘンリー八世がローマ教皇庁から独立、国教会を創ってからである。彼はトマス・クロムウェルに命じ修道院の解散と財産没収を行った。それにより、修道僧が掲げた教化の遺物は、集められてロンドン塔に収納された。
エリザベス一世の時代になると、集められたものは見世物に変化して民衆の好奇心を刺激した。貴族の間に、世界の不思議なものを集めることが始まったのである。
フランスでは「珍品陳列館」、ドイツでは「驚異の部屋」とか美術室と呼ばれ集められた。集められた珍品は地位のシンボルであり、貴族や教会がコレクションとして所蔵した。この時代背景に遅れて登場してきたのが、イギリスのジョン・トラディスカント(またはトラディスキャント)である、彼のコレクションは17世紀の世界で、有数の自然史博物館とも言うべきものであると認められた。それは「トラディスカントの方舟」と呼ばれた。
●個人博物館を造ったジョン・トラディスカントについて
ジョン・トラディスカントの本職は庭師であり、ソールズベリー卿、ウォットン卿、バッキンガム侯爵などに仕えた。1628年以降に南ランベスに居を構へて庭園と個人博物館を築いた。彼の言葉に拠ればキリスト教国・トルコなどあらゆる国から集めた珍品を展示した。彼は庭師の仲間から世界の植物と不思議な物を手に入れたのである。そのコレクションは西インド諸島、南北アメリカにまで広がった。彼の館はロンドンの名物になり貴族などが訪れた。
イギリスで見世物になったドードーも死んで剥製になり、彼のコレクションに加わった。彼の死後、全ての生き物を乗せたノアの方舟になぞらへた「トラディスカントの方舟」は息子に相続された。
1656年、息子のより『トラディスカント博物館』カタログが出版された。このカタログの中に、ドードーも「モーリシャス島の珍鳥ドードー この鳥は大きすぎて飛べない」と紹介されている。息子は「トラディスカントの方舟」を「珍品の部屋」と呼んでいたようである。
1662年にトラディスカント(息子)が死亡すると博物学コレクションは知人(エリアス・アシュモール)に遺贈された。この時、遺族とアシュモールの間に醜い争いがあったようである。アシュモール個人が買い取ったとも言われる、1682年、または1683年頃に、この「珍奇な部屋」はイギリスのオックスフォード大学に移譲された。