《神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世の動物園……ドードーも飼育されていたらしい》

温室写真
  ミュンヘン王宮 「ヴィンター・ガルテン」温室
 

ヨーロッパの1600年代は収集と募集の時代といわれ、博物学時代への先駆けとなった。


多くの王侯貴族が動物を飼育した
  ドードーの次の確かな記録は、1600年にヨーロッパウィーンのハプスブル家の神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世が、自分のミューヘン宮殿に創った動物園用(温室庭園)に買い入れた一羽である。その温室はプラハ(1583年、ルドルフ二世は首都をプラハに移した)にあり、フラッチャニ城(ルドルフ二世の居城)周辺にあったらしい。ルドルフ二世の治世は1576年から1612年までである。それはボヘミア王国の王位を廃されてから、わずか10ヶ月後のことである。(上の写真がルドルフ二世の動物館といわれるガラス温室)

ルーラント・サーフェリーについて
 ルドルフ2世に雇われたルーラント・サーフェリー(Roelant Savery)は、皇帝からアルプスのチロルに行き、山の景観を写生してくるように命じられた。皇帝はその景観を動物園の背景として描くように 言った。それが上の写真である。この写真がいつ写されたか不明であり真偽もさだかでない。当時のヨーロッパの画家達は、この動物園を訪れ、南洋の綺麗な鳥や植物を写しとり自分の画の中に描いたりした。ルドルフ二世の死後に描かれたルーラント・サーフェリー(Roelant Savery)の絵は、次のページにあります。

ルドルフの動物園(上記写真
 ルドルフ二世は世界中から珍奇な動物を集め、象までも飼育しようとしていた。いままで、ルドルフ二世への評価は金持ちの道楽と見られていたが、近年では科学的に集めようとしていたと再評価されている。政治的な評価は別にして文化面では錬金術師、そのほか学者や芸術家をプラハに集めた。収集したものは王宮内に芸術展示室(クンストカンマー)を造り展示した。当時、プラハはヨーロッパの文化センターとして繁栄した。彼は歴史の中に大きな足跡を残したのである。


 皇帝ルドルフ二世のコレクションは、1618年から1648年まで戦われた30年戦争で破れたため失われた。戦争終結の前夜、スウェーデン女王クリスチーナが臣下ケーニヒスマルク伯(1600-1663年)に命じ、彼が率いるスエーデン軍がプラハを襲撃して膨大なコレクションを略奪した。宝物の大部分はスエーデンに送られた。ケーニヒスマルク城とヴランゲル城に集められたが、その後、散失してしまったらしくハッキリとした記録はない。

  その一部は、現在ウィーンの「ウィーン美術史美術館」の絵画コレクションとして展示されている。また、1850年に動物園に飼育されていたらしいドードーの頭蓋骨が発見されたと言うが、詳細は分からない。
 
(注)ルドルフはルードルフと発音するが、当ホームページでは一般的によばれる「ルドルフ」とした。
動物園にいたドードーを描いたと言われる絵

ルートヴィヒ2世顔写真
ルドルフ二世

神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世(1576〜1612年)の肖像画
    オーストリア ハプスブルク家マクシミリアン二世の王位継承者として生まれる。24才で皇帝に即位、神聖ローマ帝国の首都をプラハに移し、芸術や自然物、錬金術に興味を示し、ヨーロッパから多くの芸術家が集まる。

 特に絵画で有名なのは、ジョゼッペ・アンチボルドやルーラント・サーフェリー(Roelant Savery)などの宮廷画家と、他には天文学者、占星術などである。彼の趣味は青年時代を過ごしたスペインで養われ、そこでイスラムから入った文化の影響を受けたのであろう。

 ルドルフ二世の狂気の部分を受け継いだのが、カール・ルートヴィヒ二世である。彼は、ミューヘン宮殿の改築をしたと言うがどのようなものか分からない。左の肖像画はハンス・フォン・アーヘン制作の『神聖ローマ皇帝ルドルフ二世』である

アンチボルト絵画写真

アンチボルト絵画写真

ジョゼッペ・アンチボルドの連作寓意画『四季』の一枚、植物モティーフで構成された擬人画。タイトルは『冬』(1563年)である。右側は3年後製作された連作寓意画『四大元素』の一枚、水生動物で構成された、タイトルは『水』である。

  マクシミリアン2世の命により制作された寓意画は『四季』(春・夏・秋・冬)と『四大元素』(水・火・空気・土)である、どちらも4点の連作だが、現在ウィーン美術史美術館にはどちらの連作も2点のみ『火』『水』『夏』『冬』が収蔵されている。四大元素の『土』はコレクターの手にあり、『空気』の原画は失われ模写のみが残された。

参考図書・「ハプスブルク家と芸術家たち」ヒュー・トレヴァー=ローパー著 横山徳爾訳 朝日選書 1995年刊 / 『突飛なるものの歴史』ロミ著 高遠弘美訳 作品社1993年刊

トップ扉 第二章 第三章