ー博覧会終了後のロンドン郊外シデナムへの移築ー

                   ●写真はケンジントンに造られた水晶宮全景、水晶宮を設計したジョセフ・パクストンーSir Joseph Paxton
《水晶宮の誕生まで》
水晶宮が作られるまで、イギリスの社会状況はあまり良くはなかった。ビクトリア女王の誕生でドイツからアルバートを夫君として迎えたばかりである。ドイツ人である彼は国民から快く迎えられた訳ではなかった。イギリスは飢餓の40年とも言われる社会的不安の時であった。そのため、彼にも冷たい視線が向けられた。皮肉なことにアルバートによりロンドン万国博覧会は推進され、イギリス栄光のビクトリア時代が始まるのである。彼の不人気に気を病んだエリザベス女王が、前面に押し出したと言われる。ロンドン博覧会のシンボルが「クリスタル・パレス(水晶宮)」である。 (参照『水晶宮物語 ロンドン万国博覧会1851』松村昌家著 リブロポート 1986年発行) 絵はビクトリア女王

〈水晶宮誕生までの時代背景……〉

ロンドン万国博覧会は国の政策でも貴族階級の支持があったわけではない。むしろドイツ人であるアルバート個人の努力で生まれたのである。

イギリスの「美術協会」は、フランスの国内博覧会の成功に刺激を受け、イギリス開催を目指して、会長にアルバートを迎へ開催したいと考えたのである。
彼を総裁にいただき広く国民から寄付を仰ぎ、わずか一年あまりで開催にこぎつけたのである。のちにロンドン万国博覧会の成功に刺激を受けたフランスは、パリ万国博覧会(1855年開催)を大規模に開催する。その時、エッフェル塔は万国博覧会のシンボルとして造られたである。


ビクトリア女王臨席の開催風景、愛する夫アルバートを誇る晴れがましい瞬間。
下の写真は青の天蓋を吊した開催風景 、ビクトリア女王とアルバート。


水晶宮のイラスト

水晶宮の展示風景
水晶宮の内部イラスト
何故、三本のニレの木は水晶宮内に入ったのか。
  それは水晶宮の建設予定地にあったニレの木の伐採することを許さないと、地元民の反対運動が起きためである、このため水晶宮の設計を変更して内部に取り込んだ。これが水晶宮に優雅な印象を与える結果となった、瓢箪から駒である。(参照・国立国会図書館の水晶宮)
北の方向から見た翼廊(よくろう)
  内部に楡の木を残したガラス張りの温室風景。これはルドルフ二世が創り上げたミューヘン王宮にあった温室ではないか。水晶宮を設計したジョセフ・パクストンはミューヘン王宮を知っていたに違いない、もちろん100年以上前のことであり、実物をみたことはない。だが、その美しさは知られていたであろう。
 
   参照・ The Industry of All Nations, 1851: Illustrated Catalogue (London: Bradbury and Evans, 1851, p. xiii)  

入場券について
 定期券ー男性用(三ポンド 三シリング)、女性用(二ポンド二シリング)、売られた枚数は二万五千枚(売上金・四万ポンド) 

一般入場料は開会初日から2日間は1ポンド、5月5日からは5シリングであったが、3週目以降は月曜日から木曜日までは1シリング、金曜日は2シリング半、土曜日は5シリング(8月6日以降は土曜日も2シリング半)とされた。

他の収入ー一般寄付・金六万四三四四 ポンド、博覧会カタログロイヤリティー・三二00ポンド、飲食物のロイヤリティー・五五00ポンド、合計十一万三0四四ポンド。

公認カタログー三巻 各五百ページ(解説・挿し絵入り)。ダゲレオタイプの写真集『水晶宮の歴史と解説』(三巻)ジョン・タリス 1040ページ。展示品の写真集である。受賞したドードー標本も撮影されて有名となる。

ガイドブック類は、1部2ペンスの「ポピュラー・ガイド」と、1シリングの「カタログ」、それに4巻本の「絵入りカタログ」の3種類が制作された。「絵入りカタログ」の売れ行きはかんばしくなかったが、1シリングカタログは28万部以上売れた。

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