潮のつと
喜多川歌麿の狂歌絵本 『潮干のつと』 彼の確かな画力と豪華な摺(すり)に驚く




 絵師喜多川歌麿の出現……(略史)
歌麿は『幼い頃から、町狩野であり江戸座の俳諧師でもあった鳥山石燕(1712〜1788)について学んだらしい。安永4年(1775)に北川豊章という名で浮世絵画壇にデビューする』(『小学館ギャラリー 新編名宝日本の美術 第28巻 歌麿』狩野博幸著 小学館 1991年刊)この頃は、北尾重正、鳥居清永らの形を学んだ、歌麿が自己のスタイルを確立し始めたのは、気鋭の版元・蔦谷重三郎との出会いからである。その始まりは狂歌絵本の制作である。歌麿美人ではなく狂歌絵本から歌麿が成長した事は驚きである。天明8年(1788)に『画本虫撰(むしえらみ)』、同じ頃に『潮干のつと』を出す、寛政初年頃(1789)に『狂歌絵本百千鳥狂歌合』をいずれも蔦重からの版行である。これらは歌麿本にはあまり取り上げられることはなく、まして全編の紹介はほとんどない。狂歌絵本三部作を見ると歌麿の画面構成力、画力の確かさを見ることが出来る。(参考・同書)

『潮干のつと(しおひのつと)』寛政元年頃(1789)画・喜多川歌麿  一帖  
  天明後期から 寛政期にかけて絵入り狂歌本を数多く手がけたのが喜多川歌麿であろう。この頃、歌麿は蔦屋重三郎から絵入りの狂歌本をたのまれていた時である。蔦重は歌麿の確かな腕を見込んだのだろうか、これら狂歌本以後、美人画を描かせ歌麿美人画の世界を創り上げた。

『彩色摺狂歌絵本。「潮干のつと」とは「潮干狩りのみやげ」という意味。

  36種の貝と、初めと終わりに付した関連美人風俗図を、朱楽菅江(1738-98)と彼の率いる朱楽連の狂歌師たち38名が1名1首ずつ詠む。画工は喜多川歌麿(?-1806)。本書には波模様や「貝合せ図」の障子に映る手拭いの影の有無等、摺りが異なるものが数種存在するが、この本には波模様、影ともに無い。本書は安永から寛政にかけて蔦屋重三郎が刊行した狂歌絵本の代表的なもので、空摺りや雲母などが施され、当時の最高水準の技術を駆使して制作された華美で贅沢な作品である。』(国立国会図書館デジタルコレクションの解説文から)

大英博物館の日本美術部長・ローレンス・スミス氏(昭和62年当時)が次のような事を述べている。
  『木版印刷による浮世絵の最良の作品が二点収蔵されていた。その一点は、歌麿の名を一躍世に知らしめたといわれる絵本『画本虫撰』(1788=天明八年)である。この版本には、探検家であり植物学者であったサー・ジョセフ・バンクス(1743〜1820) の蔵書印が捺されており、彼の死後、蔵書係によって博物館に遺贈された蔵書の一冊である。特に興味深いのは、この本が、彼の存命中、すなわち1820年以前という早い時期にイギリスに渡ってきたのは、明らかに植物学的な関心に支えられてのことであろうと思われる点にある。』中略『ヒーリア・コレクションから入った『画本虫撰』は、刊行当時そのまま、上下二冊とも日本流の表紙を残しており状態も良い』。
  植物学者が見ても素晴らしい植物画であったようだ。また、大英博物館には『潮干のつと』も収蔵されている。(参考・『秘蔵浮世絵大観 一 大英博物館 1 』楢崎宗重編著者 講談社 昭和62年刊)2024.08.06 修正更新


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原表紙は濃紺無地に金泥で姫松と草を描く、大英博物館に所蔵の本には、本文狂歌の所に紫色の波形があり、中段に砂子が蒔かれる。最後の貝合わせの場面では、手ぬぐいの影が障子に写る。これは浅野秀剛氏によれば「第二版」とされる。(参照・国文学研究資料館 所蔵資料紹介から)

『潮干のつと』喜多川歌麿画、朱楽管江編、耕書堂蔦谷重三郎版者 寛政初年頃 彩色摺 大本一帖、『百千鳥狂歌合』寛政初年頃 彩色摺 大本二帖である。(美濃判彩色摺で、五図から十数図の折帖の体裁 27.4×19.4センチ)、(注)国立国会図書館では絵本狂歌本として貴重書として指定されたようである。

喜多川歌麿の狂歌本・代表三部作は、『画本虫撰(むしえらみ)』天明八年(1788)彩色摺 大本二冊、


喜多川歌麿狂歌絵本『百千鳥狂歌合』を見る。
寛政初年(1789)頃

歌麿の詳しい浅野秀剛氏の本
『浮世絵ギャラリー 6 歌麿の風流』浅野秀剛著  小学館 2006年刊
ボストン美術館 国立国会図書館

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