●水引虹梁(みずびきこうりょう) 向拝柱の水引虹梁には彫刻が施され、時代が下るごとに装飾的になって行く。刻線は太さを増し、波頭や雲紋を重ねる絵様が現れる、幅広い刻線内に葉模様と渦紋が連なり模様となる。また細い線の流紋中に菊、鶴亀などの写実的な彫刻が刻まれている。
●木鼻(きばな) 木鼻の変化として、面彫りであった木鼻が徐々に立体的な丸彫りになり、はっきりとした立体的な獣頭が好まれるようになる。獅子頭などの丸彫りがより複雑な「籠彫」なり華麗・精緻な彫刻が造られた。(妙見堂)
●蟇股(かえるまた) 自体が彫刻化される。17世紀頃より彫刻化の傾向があるが、年代が下るにつれて立体感が増し、丸彫化の傾向が進む。下の妙見堂は、彫刻が蟇股の枠を越えて前に出た例である。(妙見堂)
●手挟み(てばさみ) 籠彫化された手挟みの例、江戸末期になると生ぬるい曲線となり、悪く言うと「饂飩式唐草」と揶揄された。構造的部材ではなく空間を埋める装飾である。(妙見堂)
●近世社寺建築の細部彫刻化について 「東京都の近世社寺建築」報告書では次のように言っている、『日光東照宮に見られるような彫刻などの付加による装飾化の傾向は近世社寺建設の特質のひとつとされる。二次調査対象においても年代を降るに従って建築に施される彫刻類が増える傾向がみられるが、公儀普請の一部には徳川家霊廟のように早くから彫刻や彩色の華やかな遺構があり、東京都の近世社寺建築における彫刻類の発達は一様ではない』。また報告書では、これらの彫刻に携わったのは地元の大工ではなく、江戸・埼玉・群馬などの彫物師であろうと想定している。おそらく江戸近郊の大田区では江戸の堂宮彫刻師に発注したのではないか。池上本門寺の妙見堂は幕府作事に準ずると思われるため、早くから建築細部の彫刻化が進んでいたようだ。