江戸時代初期から幕末まで、装飾豊かな寺社の出現まで…建築略史
 

  〈日光東照宮と彫刻専科の彫物大工の出現〉

桃山時代から江戸初期頃までの社寺に彫物は少ない、それまで大工が彫物を造ることが一般的であったが、江戸時代三代将軍家光になると幕府作事の寺社に彫物が多くなる。これは生まれながらの将軍である家光が、たぶんに豪華好みであることが影響している。幕府大棟梁であった甲良豊後守宗広は彫物も得意であり、二代将軍秀忠の霊廟である台徳院では「惣彫物」を担当したと言われる。彼が家光の時代に重用された。
  元和2年(1616)、久能山に造られた東照宮と同じように、日光東照宮は和洋で装飾的にもおとなしく、彫物と言えば蟇股・笈形・木鼻などであった。それが家光の命による寛永度造替では、日光東照宮は唐様になり装飾的な彫物に満ちた装飾華麗な建築となる。家光に習い、将軍お成りの大名家も華麗な江戸屋敷を建設した。江戸城を取り巻く一帯は華麗な建物で埋め尽くされた。甲良豊後守宗広も多くの大名屋敷を手がけた、『天下普請』といわれる建築ブームである、幕府に建築を担当する「作事方」の成立を見たのもこの頃である。
 
 『日光山東照宮大権現様御造営目録』の記録に「平大工」・「木引」などと共に「彫物大工」が記載されている、大工が兼務した彫物が、独立した専門の彫り師の出現を示唆している。建物が数多くの彫物で覆われたことを表している、また、彫物の下絵をつくる狩野派絵師の参加も伺わせる記録もある。しかし、それ以後の修理では彫物大工の記載は元禄3年(1690)の修理まで出てこない、このことから寛永の造営には上方の仏師が参加した可能性が高い、関東には彫物大工はいなかったのであろう。

 甲良豊後守宗広は建仁寺流と言われ、禅宗建築の様式を受け継ぐ一団である。彼らは彫物絵様など豪壮華麗な唐様の禅宗建設を得意としている。京都を中心として仕事をしていた建仁寺流が家光の時代には江戸に下り、日光東照宮造営でも彫物棟梁として重要な役割を果たした。特に本社拝殿の「手挟み」・「蟇股」などを甲羅豊後守宗広達が担当した、陽明門は甲羅豊後守宗広の代表作と言われる。

  元禄3年(1690)の日光東照宮修理の記録に初めて「彫物大工」の名前が記載され、この時代以後の記録に連続的に記載されることから、江戸にも彫物大工が職人として定着されたと考えられる。その彫物大工の名前も「泉姓」と「高松姓」である。肩書きとして「彫物大工棟梁」が使われるようになった。

〈寺社建築が幕府から町民や寺社自身の普請へ移行〉


三代将軍家光治世時代の華麗な建築から、幕府の方向転換が行われ、簡素な建築と建築修理主体の作事へと移行した。特に明暦3年1月18日(1657)の大火(振り袖火事とも言う)による消失は、江戸城の天守閣、外堀以内の全域と市街地の60パーセントになる大災害であった。これ以後、幕府は御三家の屋敷を江戸城外へ、また武家屋敷・大名屋敷・寺社も移転した。防火対策として火除地の設置や延焼を防ぐ広小路を造り、商家などは土蔵や瓦屋根の作り替えを奨励した。

  幕府の建築も簡素なものになり、かつてのような煌びやかな建物は造られなくなった。幕府の作事を受けていた作事方棟梁達は大きく仕事が減り、別の発注者を捜さねばならなくなった。幕府の組織でも修理を担当する「小普請方」が主流になり、経費節減のため民間の大工を登用した。作事方棟梁達の古い一子相伝的な世界から、「雛形本」による技術の吸収をした民間大工達が技術面でも成長して、幕府の仕事を請け負い始めた、その結果から古い棟梁達は遅れをとるようになった。

  幕府による大規模な普請(作事)はなくなった、幕府からの資金を断たれた寺社は、自分達で建設・改修の資金を集めるために始めたのが、寺の仏様を秘仏として公開し、浄罪を集める「御開帳」であり、箱の中の板を入れ突き当てた板を当たりとする「突当(富くじ)」である。また、神のお札を売る宝くじなどで資金を集める方法は江戸に始まる。

  日光東照宮造営や幕府作事の寺社造営に、寄進は大名・武士階級や貴族など一部の階級しか認められなかったが、元禄以後、裕福な町民の寄進や氏子からの奉納が許されて、寺社修理・建設に大きなウエイトを占めるようになる。この頃から、彼ら寄進者の願望(要望)を聞き入れ始めた。幕府作事が簡素になると反対に寺社は装飾的になってゆく、彫刻専門の彫り師(堂宮彫刻師)の誕生と進出である。
 江戸から始まったこの流れは、当然のように江戸近郊の村や多摩方面へと広がっていった。大田区も、この流れから生まれた装飾豊かな近世社寺が残された。
『古建築の細部意匠』近藤 豊著 大河出版刊 昭和55年(1972)
 古建築(寺・神社)細部意匠の名称が分かる解説書、色々の本を参考にしたが、この本以上のわかりやすい解説書はなかった。特に図版は年代別に紹介されており、「木鼻」・「蟇股」など徐々に複雑な意匠(丸彫・籠彫)に変化してゆくことが見て取れるので参考になる。江戸時代の「雛形本」からも収録されている。(大田区・大田図書館所蔵)
雛形本の見られるサイト
 日本建築学会には寄贈などで集められた108冊の雛形本があり、自由に診ることが出来る。江戸から明治・大正まであるが、さすがに江戸時代は少なく、「大和繪様集」1763年(宝暦13年)が建築意匠の雛形本であるらしい。ホームページアドレス

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