天皇は江戸東京へ、京都から江戸へ政治の中心が移る


明治元年(1868)9月20日 午前8時、天皇は鳳輦(ほうれん)に乗られ、建礼門から出立された、京都から江戸へ。天皇を補弼(ほしつ)する人たちの意図は、この旅行を通して若き天皇に世間を見せ、国民の様子(社会)をみせることであった。そのため9月24日に、通過する藩にたいして次のような通達を出した。大坂行幸(同年3月21日)が良いリハーサルになり、新政府内部では東幸の目的が絞られていたに違いない。


  • 天皇の行列が通過のさいに注意すること
    (東海道沿道の諸藩に通達)
    家の中の戸、障子は全て取り払い、
    二階の雨戸は閉めること。
    看板、のれん、道の石仏、石塔は取り
    除いておくこと。
    風呂屋など火を扱う店は休むこと。
    砂を用意しておくこと。
    民の実情を見たいので仕事は休まない
    でよい。
写真は天皇が乗られた鳳輦(ほうれん)の様子
鳳輦(ほうれん)」とは屋根に鳳凰の飾りがある天子(天皇)の乗り物を意味する。近頃では神社の神輿も鳳凰飾りがあり、神輿のことを言う場合もある。上記の写真は呉服橋を渡る鳳輦である。(絵・月岡芳年 三枚揃い 国立国会図書館蔵)


東幸の様子……「華やかさ」の演出
    東幸の供は天皇の官人だけで2000名をこえ、警備の兵士を含めると3000〜3300名以上になった。江戸時代の大名行列や朝鮮通信使の行列を遙かにしのぐ、華麗で規律のとれた大行列であった。この時、関東の民衆は幕府の武性に慣れているため、その意識を変えるため岩倉具視の発案で、朝廷風の衣冠を着用して行列した。江戸時代の行列と言えば参勤交代であり武者行列で華やかさに欠ける。唯一、華やかな行列と言えば「朝鮮通信使」(将軍の代替わりに行われた)などに限られていた、天皇の行列はそれらをはるかに上回る華やかで雅であった。

江戸時代は、今のように全ての川に橋が架かっていたわけではない。特に、江戸幕府は防衛上の必要から東海道の大きな川に橋を架けなかった。将軍でさえ川を籠(カゴ)に乗ったまま担がせて渡ったのである。徳川時代を通じて六郷川に架設の船橋(ふなばし)が架けられたのは、わずか「朝鮮通信史」や「長崎からのゾウ」など特別な場合だけであった。
天皇の行列は、全ての橋に船橋を架けさせ、鳳輦(ほうれん)に乗られたまま渡ったのである。その様子は、東幸の発表とともに、すぐに数多くの錦絵に描かれて事前の予告となった。そのため大勢の見物庶民が行列の通過を見物した。

 天皇(天子)様を知らない庶民は、特別な扱いの華麗な行列を見ることで、確実に時代が変わったことを実感したに違いない。後の第二回東幸では、東海道沿道の諸藩の領主(殿様)が天皇の行列を出迎へ頭を下げた、その姿を見て庶民は、誰が自分たちの新しい主人になったかをハッキリと実感したに違いない。
 特に江戸近郊の人々(現在の大田区や品川区)には、その思いが強かったに違いない。絵は江戸に入ったところ、天皇の乗られた鳳輦(ほうれん)である。イラストはフランス「ル・モンド」に掲載された登校の風景(Wikipedia) (関連ページ 六郷の渡しを渡る東幸の行列)
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  (参照『 江戸が東京になった日 明治2年の東京遷都』佐々木克著  講談社選書メチエ(株)講談社発行2001


「東京江戸品川高輪風景」 歌川国輝(二代)画 慶応4年(1868)8月刊
品川歴史博物館蔵
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