東幸の江戸到着 江戸城を東京城と改称する


江戸に到着
  9月20日京都を出発された天皇は、10月13日江戸に到着された。江戸庶民の見物は大変なものであった。幕府の大政奉還により、江戸にあった大名の藩邸が閉鎖され人が少なくなり、経済的に落ち込んでいた江戸庶民の気分が、これにより、がらっと変わったのである。江戸城を東京城と改め、御東臨の日に皇居と定め、群臣の登場を参内と称した。10月17日には「万機親裁の詔」を下した。天皇の政治参加宣言と言うべきものである。


時代が変わったのだ、見せる天皇の演出

 天皇を補弼した明治の政治家達は、時代が変わったことを民衆に意識させるため、天皇を見せる演出を考えた、その最大の演出が前後2回の御東幸で完全に成功した。上の絵のように奥州平定官軍が偶然のように行列に加わっているのである。その意図は内乱を平定した平和国家の元首として、新しく登場したイメージを創り上げるためであった。それは下の絵にあるように、江戸庶民に酒を下賜する演出にも現れている。

 ー東京市民に酒を下賜されるー

御酒頂戴」東京公文書館蔵(「都市紀要」の挿絵)

10月27日 氷川神社へ行幸の日、東京市民一同へ酒を下賜される発表があった。宮中より元酒として23樽が下され、これに政府が酒樽を加え大町(百軒以上)には3樽、中町(50軒以上)には2樽、それ以下の小町には1樽、総数で2563樽(2990樽とも言われる)であった。1700匹のスルメもつけられたらしい。
  錦絵に見られるように町の代表が樽を受け取り、幟や旗で飾り、鉦や太鼓で囃子ながら町内に帰っていった。11月6〜7日、この酒を皆で頂いた、屋台や飾り車も出て家業を休んだ東京市民で祭りのようになった。江戸幕府消滅以来うち沈んでいた人に始めて明るい気分がやってきたのである。江戸幕府の瘧が落ちたようになった。 この時の東京市民とは、江戸幕府が定めた朱引内の町であり、今の皇居あたりから下町あたりのかなり狭い範囲を言う。

次のページに   前のページに    扉に戻る