京都へ還幸された天皇・第二回御東幸の成功


天皇は京都へ還幸された

12月8日、天皇は東京城を出立、京都へ還幸(かんこう)された。12月22日京都にお帰りになり、28日に御結婚された。

  明治2年2月18日 東京への第二回の御東幸を3月7日に決定、24日には東京に天皇がおられる間、太政官を東京に移す事にした。太政官は天皇御親政の組織であり、長い間おかれることはなかったのであるが、王政復興で復活した。太政官が東京にあるとき、京都には留守官が置かれた。

 25日には、御東幸に際し議事所を東京に移し、二等官以上及び公家諸侯の会議を開くこととした。3月7日に京都を御出発された。御東幸に反対する公家や商人、庶民の声を押しのけての出発である。
〈二回目の御東幸は成功した〉

この二回目の御東幸は沿道の庶民と日本中の人々に、世の中が変化したこと強く意識させた。それは、御東幸の通る道筋にあたる「諸藩の殿様」が天皇の迎えに出たことである。今まで殿様として自分たちを治めていた主人(藩主)が、天皇に頭を下げ臣下の礼を取ったのである。目で見える大きな変化であった。

「六郷の渡し」の船橋でも、一回目の架設は川崎宿であったが、二回目の御東幸では六郷の鈴木万右衛門(左内の父)が請け負っている。彼にも、やはり新しい時代への予感と気負いがあったのであろうか。川崎宿の六郷舟橋架設絵図

明治天皇が東海道を通って京都から東京に移動する輿と行列。フランス海軍将校アルフレッド・ルサンによるクロッキーの後、「ル・モンド・イリュストレ」の1869年2月20日号に掲載された図面(ウィキペディア パブリックドメイン) 

 明治2年(1869)3月28日  東京城に到着、名前を改め「皇城」とした、つまり今の皇居である。事実上、東京遷都が確立したのである。その後、皇后も東京に来られ、京都への還幸も延期されたりした。そのため長く歴史上、政治の中心であった京都の政治的機能はなくなった。

東京遷都は、はっきりした遷都の詔はなく、明治元年7月17日の大詔に始まり、4年8月の京都留守官の廃止によって確立したのである


  ー東京府に編入される荏原郡…大田区の前身ー  


江戸幕府と結びつきの強かった地域ー大田区(大森・蒲田区)

 
 江戸幕府の直轄領であった地域は、慶応4年(1868)1月10日に「農商布告」で新政府の直轄領となった。成立したばかりの明治政府は脆弱で、元徳川幕府の直轄領地域の政策を誤れなば大変なことになる、そのため、地域の有力な農民(名主等)を積極的に取り込んでいった。江戸近郊の名主達は新政府の官司(かんし)になり、地域の安定に協力した。明治政府は江戸幕府の地域行政官であった彼らを、積極的に取り込んでいったのである。いま問題になっている地方郵便局はこの時に政府から認可されたものである。

 荏原郡は、古賀定雄知事の品川県に編入された。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県が実施され荏原郡は東京府に組み込まれた。この段階で現在に近い面積の東京都となったのである。(2006年)

 明治22年(1889)、市町村制の施行により大田区は、荏原郡のもとに「大森、入新井、馬込、池上、調布、蒲田、矢口、六郷、羽田」の九か村からなっていた。この頃人口は、戸数6915戸、35988人であった。(大田区史より)
 その当時、やや賑やかなところと言えば、大森の三原通り(東海道沿い)、池上本門寺門前、羽田漁師町あたりのみであった。おそらく、品川方向より三原通りを歩き、近隣の寺社のお参りと池上本門寺にお参り、一泊したのち新田神社や光明寺などに寄り、中原街道から江戸に帰る。こんなコースが考えられる。このような行楽地の賑わいと東海道沿線の六郷近辺しか人家がなく、他は寂しいところであった。

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