●江戸幕府と結びつきの強かった地域ー大田区(大森・蒲田区)
江戸幕府の直轄領であった地域は、慶応4年(1868)1月10日に「農商布告」で新政府の直轄領となった。成立したばかりの明治政府は脆弱で、元徳川幕府の直轄領地域の政策を誤れなば大変なことになる、そのため、地域の有力な農民(名主等)を積極的に取り込んでいった。江戸近郊の名主達は新政府の官司(かんし)になり、地域の安定に協力した。明治政府は江戸幕府の地域行政官であった彼らを、積極的に取り込んでいったのである。いま問題になっている地方郵便局はこの時に政府から認可されたものである。
荏原郡は、古賀定雄知事の品川県に編入された。明治4年(1871)7月14日、廃藩置県が実施され荏原郡は東京府に組み込まれた。この段階で現在に近い面積の東京都となったのである。(2006年)
明治22年(1889)、市町村制の施行により大田区は、荏原郡のもとに「大森、入新井、馬込、池上、調布、蒲田、矢口、六郷、羽田」の九か村からなっていた。この頃人口は、戸数6915戸、35988人であった。(大田区史より)
その当時、やや賑やかなところと言えば、大森の三原通り(東海道沿い)、池上本門寺門前、羽田漁師町あたりのみであった。おそらく、品川方向より三原通りを歩き、近隣の寺社のお参りと池上本門寺にお参り、一泊したのち新田神社や光明寺などに寄り、中原街道から江戸に帰る。こんなコースが考えられる。このような行楽地の賑わいと東海道沿線の六郷近辺しか人家がなく、他は寂しいところであった。
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