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●喜多川歌麿の才能を見いだした蔦谷重三郎。 蔦重は江戸の狂歌サロンに関わり、歌麿を「筆綾丸」の狂歌名でサロンに引き込むのである。歌麿にも狂歌読みの才能があったのであろう、サロンに溶け込み、太田南畝(おおたなんぽ)の狂歌黄表紙の挿絵を担当するのである。彼は狂歌サロンの中心的存在であり、認められる事は歌麿の柔軟性を示す事柄であろう。上の錦絵を見ると、後の大首絵歌麿の美人画を描けるとは思えない。線も固く、構成も上手くない。「青樓十二時 續・巳ノ刻」画・喜多川歌麿(東京国立博物館所蔵所蔵) |
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●狂歌流行の中から生まれた絵入狂歌本……
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●『潮干のつと』蔦谷重三郎版 寛政1年(1789)彩色摺絵入狂歌本 1丁 27×18.9センチ 全10丁(序1丁、跋・刊記1丁)36種の貝を詠み込んだ36人36首を集めた「貝合」とも言うべき狂歌1集。歌麿は出来具合に自信を覗かせる「自成一家」の印を押している。『潮干のつと』ページへ |
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●『百千鳥狂歌合』蔦谷重三郎版 寛政2年頃(1790)彩色摺絵入狂歌本 2帖 25.5×18.9センチ 前編10丁(序1丁、見開き図8図8丁、広告・刊記1丁)/後編9丁、見開き図7図7丁、こうこく・刊記1丁)『百千鳥狂歌合』ページへ |
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●狂歌ブームの終演 狂歌ブームの中核をなしたのは、大田南畝を始めとする幕臣達であったが、出版統制や締めつけで狂歌から手を引いていった。特に恋川春町の『鸚鵡返文武両道』(おうむかえしぶんぶりょうどう)が、幕府の怒りに触れ恋川春町の不可思議な死が大きな影響を与えたと思われる。蔦谷重三郎や喜多川歌麿も定信の改革を脅威と考えた、狂歌本などの出版も減り歌麿も錦絵の制作に手を染めるようになる。 ●歌麿が身の危険を感じ江戸を逃げ出した、蔦谷重三郎がお上に捕まり罰を受けたからである。栃木の狂歌仲間である豪商・善野喜兵衛を頼り栃木に逃げた。ここで大画面の肉筆三部作を制作した。 1.【品川の月】米国・フーリア美術館蔵サイズ:147.0cm×319.0cm(横長)制作時期:天明末期の8(1788)年頃。 2.【吉原の花】米国・ワズワース・アセーニアム美術館蔵サイズ:186.7cm×256.9cm(縦長)制作時期:寛政初期の3-4(1791-2)年頃 3.【深川の雪】岡田美術館蔵サイズ:198.8cm×341.1cm制作時期:享和2(1802)年から文化3(1806)年頃 この肉筆三部作の制作をする事で着想を得た、歌麿特有の洗練された「美人大首絵」が生まれたと言われています。 ●『喜多川歌麿「深川の雪」は、「品川の月」(米国・フリーア美術館蔵)、「吉原の花」(米国・ワズワース・アセーニアム美術館蔵)とともに、「雪月花」三部作として知られる歌麿肉筆画の最高傑作です。まず驚くのは、縦199p×横341pにも及ぶその大きさです。掛軸画では考えられない巨大な画面に、総勢27名の人物たちが生き生きと描かれており、晩年になっても、なお衰えない歌麿の真価が発揮されています。 「深川の雪」は、歌麿が栃木に滞在した際に制作されたと伝えられますが、長らく行方が分かりませんでした。実に66年ぶりの公開となる記念すべき展覧会を、ぜひご覧ください。』岡田美術館 特別展示 再発見 歌麿「深川の雪」パンフレットより |
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岡田美術館所蔵 『深川の雪』 |
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