勇魚(クジラ)獲りは、古来からの伝統漁業であった


日本捕鯨略史
  縄文・弥生時代の遺跡からもクジラやイルカの骨が発見される。中には骨に刺さった黒曜石の矢尻などが見つかっている。もちろん、古来のクジラ漁は、我々が想像する小舟から銛(もり)を打ち込む漁ではなく、浅瀬に迷い込んだクジラを死んでから解体する事から始まり、次に浅瀬に追い込むことを覚えた。クジラは自然の大きな恵みであり、何日も生き延びる事が出来る大きな獲物である。捕鯨の始まりははっきりしていない。
 

葛飾北斎 「千繪の海」
近世になると銛(モリ)や網を使う狩猟技術の発達し「突取捕鯨」(銛のみ使用)で小型の鯨を、「網掛突取捕鯨」で中型から大型の鯨が捕れるようになり、捕鯨専門集団の成立を見た。その始まりは、紀州大地浦から、土佐室戸の津呂、肥前の大村へと全国各地に広がった。(参照・「江戸 いきもの彩々」ー総合図書館貴重書展ー東京大学付属図書館 平成23年)
 
  江戸時代には、クジラの脂は鯨油として灯火用、肉は食用、骨やヒゲも手芸品などに利用され捨てるところがない。日本全国の沿岸で広く行われ、房総でも行われていた。余談であるが、幕末ペリーが来航して日本に開国を求めた理由の一つに、自国の捕鯨船のために石炭や水の補給基地を造りたいとの要求があった。世界中で捕鯨は行われていた、外国のクジラ漁は、主に鯨油をとるためであり、鯨肉はたべなかった。葛飾北斎の『千絵の海』シリーズにも、五島列島のクジラ漁の浮世絵がある。

『勇魚取絵詞』(いさなとりえことば)文政12年(1829)
紹介する捕鯨の様子は、肥前国生月島の捕鯨漁の記録で写本・上下2帖と鯨料理の『鯨肉調味方』折本の三冊である。(写本、著者小山田与清)国立国会図書館デジタル化資料 同館には巻物仕立ての『勇魚取絵詞』も残されている。 
生月一部浦益富組の出漁風景 

平戸市生月町博物館の紹介文…
『「勇魚取絵詞」は、生月島の御崎浦で操業する益冨・御崎組の様子を紹介した捕鯨図説で、文政12年(1829)の跋文(小山田與清)があることから、この年代頃に益冨家が主体となって制作されたと考えられている。 折本形式で木版単色の印刷物のため複数資料が存在する。現在平戸の松浦史料博物館に版木があり、その制作に用いた筈の手書原本の存在も想定されるが、現在のところ確認され ていない。しかしながらデッサンと思われる図群は、ライデンのシーボルトコレクショ ン中の『張公捕魚』と呼ばれる彩色手書折本の捕鯨図説の中に確認できる。なお印刷本をテキストにした、手書彩色の模写本も複数制作されている。 この図説の上巻は、操業順序で紹介していく西海系図説の構成の基本形に忠実である。 内容的には大槻清準が文化5年(1808)に制作した捕鯨図説『鯨史稿』の影響も大きい。また遠近法を多用した独特のリアルな図は司馬江漢の『西遊旅譚』の影響が認められる。なお付録として『鯨肉調味方』という鯨肉の調理方法を解説した本がある。』(WEBより)
 


(上巻の挿絵)

 1.生月嶋全図
 2.生月御崎納屋全図
 3.生月一部浦苧綯図
 4.生月御崎納屋網作図
 5.生月御崎納屋場前細工図
 6.生月御崎納屋場前細工図
 7.生月一部浦益□宅組出図
 8.生月御崎西沖下鯨見出図
 9.生月御崎沖座頭鯨網代追入図
 10.生月御崎沖背美鯨掛取銛突図
 11.生月御崎沖背美鯨1銛2銛突印立図
 12.生月御崎沖座頭子持鯨剣切図
 13.生月御崎沖持双船鯨掛挟漕立図
 14.生月御崎浦鯨掛取漕込図
 15.生月御崎納屋場背美鯨漕寄図
 16.生月御崎納屋場背美鯨切解図
 17.生月御崎浦大納屋図
 18.生月御崎浦小納屋図
 19.生月御崎浦骨納屋図
 20.生月御崎納屋場羽差踊図 生月御崎沖背美鯨1銛2銛 突印立図
 


(下巻の挿絵)
1.(背美鯨・座頭鯨の図)
2.(児鯨・背美鯨子・長須鯨の図)
3.背美鯨解方並名目
4.背美鯨骨組並名目
5.(身体各部分の図)
6.(身体各部分の図)
7.背美鯨骨図
8.(骨各部分の図)
9.臓腑表面の図・臓腑裏面の図
10.筋制作の図
11.(勢子船・持双船図)
12.(双海船・双海付船図)
 13.(網図)
 14.(捕獲・解体道具図)
 15.萬
 16.羽矢銛全図
 17.剣全図
 18.(手形包丁・大切包丁図)
 19.(加工道具)
 20.(轆轤その他、納屋道具)
 21.勇魚取跋 
生月御崎沖持双船鯨掛挟漕立図  

生月御崎納屋場
背美鯨漕寄図

生月御崎納屋場
背美鯨切解図

 

生月御崎浦小納屋図

上・背美鯨 下.座頭鯨

背美鯨の解剖図

背美鯨の各部分の図

背美鯨の骨図

勢子船・持双船図

『和漢三才図会』正徳2年(1712)に作られた百科事典(中国の三才図会を模した本)、
 
  全部で105巻あり、その5巻(鳥獣)、7巻(人倫類)に鯨の記載があり、平凡社「東洋文庫」に収録されている。その中から抜粋した『動物誌と動物譚』杉田英明編 1989年刊の記述から。
 鳥獣5巻より、『鯨は海中の大魚である。大きくて海に横たわり舟を呑む。海底の穴に住んでいる。鯨が穴から出ると海水は溢れる。これを鯨潮という。あるいは鯨が穴から出るときは潮がさがり、入るときは潮が上る。その出入りは時間的に決まっている。鯨の大きなものは長さ千里もあり、小さなもので数丈。一回に数万の子を生む。』
 
  人倫類7巻より、鯨の種類をあげている。背美鯨は六種類いる鯨のうち最上のものである。座頭鯨は背に疣鰭があり、琵琶の形に似ており、瞽者(ごぜ)が琵琶を背に負っている姿から付けられた。長須鯨、鰯鯨(いわしくじら)、真甲鯨、子鯨である。

日本の捕鯨 シーボルト『江戸参府紀行』文政9年(1826)将軍家斉に会うために長崎から江戸へ向かう。(画・川原慶賀)
 
  『日本の海ではセミクジラが最も多く姿を現す。この鯨の肉はおいしく、日本人の好みに合い最も珍重される。』、『一匹の大きなセミクジラは3千6百両から4千両までもする。そして平均して年間に250から300頭までの鯨が捕らえられるから、それから考えても日本における捕鯨業の重要性が判断される。』

『日本では普通25の小舟と8隻の割合大きな舟が船団を作って捕鯨に出かける。小さい方の舟は鯨舟といい、5〜6間の長さの空舟で、八つの艪をもち、11ないし13人が乗り込んでいるのは本来捕鯨をするためである。鯨が見つかると、この小さい舟に乗って鯨に向かって漕ぎ進み銛(モリ)を投げる。

  大きいほうの舟は、先に堺船という名で述べたもので、商船式に造られていて普通それには波不知船という木造船を使う。傷ついた鯨をつつんだり、あるいはその退路を断つ大きい鯨アミを運搬したりする役を受け持つ。こういう網は稲藁か、またまれにはシュロの繊維で編んだもので、10丈(38.18メートル)の深さで、三百メートルの長さがあるので、これだけで船の積荷となる。獲った鯨や殺された鯨をその網でつつみ、普通は漁村の海岸まで引っ張ってゆき、陸揚げ場のうちとくにそういう設備のある場所で切り開く、肉や脂身やその他食用になるところは魚屋が買い集め、新鮮な状態で日本中の全ての港へ送り出す。』(シーボルト『江戸参府紀行』文政9年(1826))

(勢子船・持双船図) 網図
上記の絵すべては、国立国会図書館デジタル化資料
トップ扉に戻る 鯨−2     図譜目次