河童(かっぱ)や人魚を実在すると信じた江戸時代本草学の水虎


水虎(すいこ)

  水虎はもともと中国から水の妖怪として入った、江戸時代の妖怪ナビデーター鳥山石燕によれば、『水虎はかたち小児のごとし。甲は綾鯉(りょうり)のごとく、膝頭虎の爪に似たり。もとこし速水の辺にすみて、つねに沙の上に甲を曝すといへり』(鳥山石燕『今昔画図続百鬼』と言う、日本では人を水に引き込む恐ろしい妖怪として登場した。河童というお馴染みの妖怪が、日本にはいたらしい、これが水虎と融合したようだ。詳しい事は分からない。

毛利元寿の『梅園禽譜ー魚』に画かれた人魚

 
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毛利元寿とは

梅園禽譜を調査した磯野直秀氏によれば、彼は同時代の本草学者がそうであったように「分類への志向が薄い点」にあるという、「また、珍獣や奇種などを徒に追い求めず、普段身の回りに見られる動植物を対象としていること、同時期の本草画譜から見ると実に例外的なことに実物を前にして写生(「真写」)を行っていること、写生年月日、産地、由来を性格に記していることなども注目に値する。」と言う。
 
私が見ても真摯な態度が見える。その彼にして、この人魚である。河童(カッパ)も信じていたのではないか。 (「江戸末期と明治前半の昆虫標本ー東京大学の所蔵品を中心にー」小西正泰・北興化学工業・技術顧問)webより 国立国会図書館デジタル化資料  人魚についての詳細
 

江戸後期『水虎十二品之図』浩雪坂本先生鑑定 林奎文房潤暉版行
江戸後期の紀州で売られた一枚物である。国立国会図書館デジタル化資料
河童の妖怪は人気があったようで子供向けの
双六にもある。
(坂東太郎の河童)

18世紀、河童のイメージは猿を基にしたイメージである、『和漢三才図会』には、『川太郎(河童)について子供の大きさで頭にくぼみがあり、腕は左右に通り抜け、相撲を好むなどの特長が記され、猿のような姿の図が載っている。』とある。しかし、18世紀後半になると、鳥山石燕の『画図百鬼夜行』(1778年)の水虎(河童)はページ上部のイラストのように、おかっぱ頭で頭頂部にくぼみが有り、体色は緑色、背中に網羅を背負う亀人間のようになり、スッポンや亀と蛙が混じった妖怪が生まれた。また、今では全国的に河童と呼ばれるが、元は関東地方のみで呼ばれた名称であった。

江戸時代、河童イメージの確立 (江戸 豊後国日田で捕らえられた河童の図)
 寛永年間に豊後国日田(大分県日田市)で捕らえられた言う河童が江戸時代の河童のイメージを創りあげた。『鼻先がくちばしのように前に突き出、甲羅を背に負い、青緑色の体色をした、まさに現在のイメージそのもの河童であった』(『河童とはなにか【歴博フォーラム 民俗展示の新構築】』国立歴史民俗博物館 2014年刊)

『昔、飛騨の匠とか竹田の番匠とか左甚五郎 といった神格化された大工が、期日までに仕上げることが困難な建築工事をすることになった。そこで人手不足を補うために、人形を作り、それに呪術を用いて精気を吹き込んで生身の人間のように変え、それを働かせて無事に仕事を終えることがきた。ところが、用済みになった人形の処分に困ってしまった。やむなく川に捨てたところ、それが河童になったというのである。』(『日本異界絵巻』宮田 登・小松和彦・鎌田東二著 河出書房新社 1990年刊)
 
  これが「河童人形」である。川に捨てられた人形は、どう食べていけば良いかと問うと『人の尻子玉』を食べろと言われた。それ以来、河童は人の尻を狙うようになった。(注・尻子玉とは、尻野中にあると信じられた架空の臓器、カッパに取られると溺れ死ぬと思われた。

河童を疫病神・怨霊神である祇園牛頭天皇の御子であると言う説
 人間の穢れを人形に背負わせ川に流した。それらの河童が集まり河童王国を作った。その他、『椀貸し伝説、人寄せで多くの膳椀が入用の場合,その数を頼むと貸してくれるという沼や淵の話』 (世界大百科事典 第二版)、『河童駒引伝説』は、アジア・ユーラシア大陸全域にある、河童が馬を引き込むと言う伝説である。

ー鳥山石燕の河童と人魚ー
人魚 鳥山石燕
鳥山石燕は『和漢三才図会』より、センザンコウに似た妖怪と説明している。その後、水虎のイメージは徐々になくなり、親しみやすくなり水難を防ぐ神様になった。右のイラストは、安永5年(1776)、鳥山石燕の『画面百鬼夜行』からの水虎である。
左は獺と河童 右は人魚 
獺と河童 鳥山石燕
「百鬼夜行 3巻」鳥山石燕 版元・長野屋勘吉 文化2年(1805)鳥山石燕(1714〜1788)は、本名佐野豊房、狩野家表絵師・下谷御士町に連なる狩野玉燕周信の門下で町絵師であろう。喜多川歌麿、恋川春町、歌川豊春などを教える。
浮世絵 白藤源太

上右の浮世絵は月岡芳年が描いた「和漢百物語 白藤源太」(国立国会図書館デジタル化資料)  白藤源太は相撲取りで、彼の河童退治は江戸庶民に良く知られた話であった。河童は広く知られた話で色々な取り上げ方をされている

河童の図浮世絵 北斎漫画
豊後国日田で捕らえられた河童の図(部分) 寛永年間(1624〜1644)

北斉漫画 河童を捕まえようと尻を見せる男。国立国会図書館デジタル化資料 

―おかっぱ頭の子供達―
「端午」喜多川歌麿(2代)東京国立博物館蔵 
左の浮世絵は、描かれた子供達の頭を見てほしい。一番左は女の子であろう。
江戸特有の子供おかっぱ頭である。
「幼童諸芸教草」朝桜楼国芳(歌川国芳)部分 国立国会図書館デジタル化資料  
 
江戸時代、幼児は御河童(おかっぱ)頭であった。 岩波書店の「広辞苑 第4版」によれば「頭髪のまんなかを剃り、まわりを残したもの。→おかっぱ」となっている。三省堂の「大辞林」でも同じような記述である。浮世絵を見るとおかっぱ頭にも色々あり、男の子・女の子の区別もあったようである。 子供のおかっぱ頭を見る。
  木版画 子供百物語
子供の遊び浮世絵を見る

歌麿浮世絵歌麿浮世絵 浮世絵歌麿
「当世好物八景 子供好」喜多川歌麿 東京国立博物館蔵
写真 本 妖怪図鑑妖怪絵巻
『河童とはなにか【歴博フォーラム 民俗展示の新構築】』
国立歴史民俗博物館 2014年刊

『太陽別冊 日本のこころ 170 妖怪絵巻 日本の異界をのぞく』平凡社 2010年刊
   《参考図書 カッパについて》
  『日本異界絵巻』宮田 登・小松和彦・鎌田東二著 河出書房新社 1990年刊
  『日本の妖怪』監修・岩井宏實 河出書房新社 1990年刊
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