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●「海鷂魚(かいようぎょ)鳥エイ、ハトエイ」画・毛利大江元寿
国立国会図書館デジタル化資料 |
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●梅園禽譜の魚を集めた図譜『梅園魚譜』 |
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人魚について……日本の人魚像 ●河原慶賀の人魚像…… ●川原慶賀が描く人魚(ライデン国立民族学博物館・オランダ)
川原慶賀とは、幕末の長崎の画家である。出島出入りの絵師として活躍した。シーボルトに見いだされ彼の依頼であらゆる画を描いた。彼の指導により精緻な動植物図画を描いたが、シーボルトの帰国により慶賀の画もオランダに持ち出された。彼の描いた人魚の絵を見る。 ●「海鷂魚(かいようぎょ)」画・毛利大江元寿 国立国会図書館デジタル化資料 |
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●日本の人魚像について…… 人魚の概念が日本にもたらされたのは、中国の『山海経』あたりかららしい、現在のイメージは美しい人魚(セイレーン)であるが、中国からは恐ろしい人間の頭を持つ猿のような魚であった。鎌倉時代頃には、人魚を食べると「八百比丘尼」となり何百年も生きる妖怪となると信じられた。 江戸時代になると「黄表紙・読本の作者東京伝の黄表紙『箱入娘面屋人魚』(1791年)に登場する人魚は.人間の浦島太郎が魚のお鯉と浮気をして誕生した,すなわち異種の生物の間に誕生した合いの子として描写されている。」(「江戸時代の人魚像」九頭見 和夫)、また氏によれば人魚は日本海沿いの津軽から南の豊後にかけて出現伝承が分布すると言う。 曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』や随筆の『諸国里人談』菊岡沾涼、松浦静出の『甲子夜話』(1760年から1841年)などにも登場する。 その姿は、上半身が美女で下半身が魚の姿と描写されて西欧の人魚との類似が見られるが、ファンタジックなものでなく 、日本では恐ろしい妖怪であった。 別の人魚を見る |
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『江戸時代の人魚浮世絵』 | ||||||||||
●『観音霊験記 西国第32番観音正寺 人魚』 観音正寺は、聖徳太子が開祖と言われる伝承がある。太子が自分で彫った千手観音を祀ったという。この地で魚師を生業としていた人が、殺生のため人魚にされたと言われ苦しんでいた。そのことを太子に訴えている姿が下の絵である。そこで太子は祀るため、千手観音を作ったと言われる。この千手観音と人魚のミイラは火災で焼失した(平成5年)。(現住所・〒521ー1331 滋賀県近江八幡市安土町石寺2) ●錦絵は、訪ねる人の観光案内になっており、34枚(縦36センチ)シリーズとなっている。版元は、江戸中橋広小路伝兵衛典の山田屋庄次郎である、通称山庄、おそらくばら売りと画帳仕立てがあったのではないか。これらを持ち霊場を回ったのではないかと考えている。 ●『観音霊験記 西国第32番観音正寺 人魚』画・広重(2代)、豊国、版元・山田屋庄次郎、→拡大表示 画面に記された文は、万亭応賀(服部孝三郎によって編まれた逸話・御詠歌・和歌などである。国立国会図書館デジタル化資料 |
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