「平間の渡し」の対岸川崎市には、赤穂浪士の遺品を所蔵する称名寺がある

赤穂浪士ー大石内蔵助らの遺品が残る称名寺(川崎市)は数少ない赤穂浪士の史実として認められている。

 川崎市の真宗大谷派寺院・称名寺は赤穂浪士ゆかりの寺として知られます。赤穂浪士が江戸に入る前に平間村に逗留したことは史実であるのに余り知られていません。それは歌舞伎の赤穂浪士が有名で史実と思われたためです、そのため数ある赤穂浪士討ち入り映画でも、平間村逗留を描いたものはなく、取り上げたのは、史実に沿ったNHKの大河ドラマ赤穂浪士だけであります。残念なことに、 どのドラマに下平間村が描かれていたか記憶が定かでありません。
赤穂浪士を題材にした、主なNHKドラマ  番組タイトルー放送年

  大河ドラマ 第2作『赤穂浪士』ー1964(昭和39)年
大河ドラマ 第13作『元禄太平記』ー1975(昭和50)年
大河ドラマ 第20作『峠の群像』ー1982(昭和57)年
大河ドラマ 第38作『元禄繚乱』ー1999(平成11)年
金曜時代劇『最後の忠臣蔵』ー2004(平成16)年
BS時代劇『薄桜記』ー2012(平成24)年
2021年になり、大石内蔵助以下10名ほどの浪士が、平間村に滞在した史実を扱った映画が見つかった。「日本映画誕生100周年記念作品」として東宝の威信を賭けて製作され、市川崑監督、高倉健主演により1994年10月22日に公開された「四十七士人の刺客」である。原作は池宮彰一カで1992年新潮社より出版された。詳細を見る。
赤穂浪士の遺品がある称名寺
称名寺には戦災を免れた赤穂浪士の遺品があり、毎年12月4日に一般公開している。遺品は約30点ほどあり、大石良雄愛用のおかめの面(木製)と書、富森助右衛門愛蔵の銚子と盃、浪士の書簡などがある。赤穂浪士達は平間村に10日ほど滞在、江戸の情勢を見極めたのち江戸に入った。

川崎市資料から(川崎市WEBより)
  『下平間村の軽部五兵衛は、農業経営の傍ら、赤穂の浅野家の江戸屋敷へ秣(まぐさ・馬の飼料)を収めたり、浅野家の江戸屋敷の下掃除(人糞=下肥【しもごえ】を田畑の肥料として利用するため、これを回収、分配する)を請け負っていました。元禄14(1701)年3月の松の廊下の刃傷事件後には浅野家の江戸屋敷立ち退きの手伝いをするなど、深い縁がありました。赤穂藩が解体され、浪人となった藩士のうち、堀部弥兵衛(ほりべやへえ)など、軽部家に世話になったものもいたらしく、その後、軽部家の敷地内に赤穂家浪人のための隠れ家が建設されました。おもに富森助右衛門が住み、討入り決行直前に大石内蔵助が江戸に向かう際、ここに10日間ほど滞在しました』
  また『遺品としては、大石良雄愛用のおかめの面と書/山鹿素行の書/富森助右衛門愛藏の銚子と盃/他には浪士の書簡/日上幸川筆の「紙本着色四十七士像」などあります。四十七士像は昭和60年12月に川崎市文化財の指定を受けて入るものです。これらの遺品は毎年12月14日に一般公開しております。 (川崎ロータリークラブ温故知新 本田 和氏筆)


赤穂藩(兵庫県赤穂市)、大石内蔵助の菩提寺であった正福寺には「暇乞いの状」(書状)が残されている。  
『この『暇乞いの状』という書状が吉良邸討ち入りの前日に花岳寺(赤穂藩主浅野家の菩提寺)・正福寺・神護寺の三者宛てに発信されております。この書状の中に「鎌倉に立ち寄り五、六日逗留、それより川崎近所平間村と申所に在宅申し、その後江戸に入ったという」事が記されています。この書状が現存しておりますので、鎌倉から平間村に立ち寄って江戸に入ったということは史実的にも明らかです。』

大石内蔵助は下平間村で討ち入りの注意事を記載した同士宛の「討ち入り十ヶ条の訓令」を起草しています。 川崎市で盛り上がった赤穂浪士は、「平間の渡し」を渡ったのち、どのルートで江戸に入ったのであろうか。中原街道(大山街道)は目立ちすぎる、やはり平間街道を南品川目指して進み、ひょっとすると池上本門寺に大願成就を願ったかも知れない。南品川から高輪へ向かう裏道を行ったのであろうと考える。(私見)
 
浮世絵は、歌川国芳の連作「誠忠義士肖像 大星由良之助良雄」嘉永5年(1852)であるが、歌舞伎調の忠臣蔵ではなくリアリズム調であるが、江戸時代の庶民には受けなかったようであり、途中わずか12図で打ち切られたようである。『槍に付いている札は、討ち入りに参加できなかった早野勘平を悼んで国芳がつけたもの。』(アートビギナーズ・コレクション『もっと知りたい 歌川国芳生涯と作品』悳 俊彦いさお・としひこ東京美術 2008年) 拡大表示


称名寺(稱名寺)真宗大家派 住所・川崎市下平間村183 川崎市ホームページ
  日吉郷土史会・幸区ホームページ『日吉の歴史をさぐる』

赤穂浪士浮世絵の変わり種ー子持ち浮世絵

絵師・豊原周義(生没未詳)、画工・鈴木おさと、彫・弥太、出版人・福田熊次良。明治11年(1878)4月。豊原国周の門人。
(浮世絵 「馬込と大田区の歴史を保存する会」樋口和則所蔵)

浮世絵は「子持ち浮世絵」と呼ばれる変わった趣向の浮世絵である。役者の顔部分が「めくり絵」になっており、表情が変化する。子ども向けの浮世絵かどうかハッキリ分からない。明治の頃の浮世絵であり、いつの時代も赤穂浪士は歌舞伎の人気ある演目であり、困ったときは赤穂浪士を演ずるという雰囲気があったようだ。
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