ドードーの絶滅

ドードー絶滅の最大の要因は、砂糖プランテーション開拓のため森林伐採
を進め、ドードーの生息領域を奪ったためである。

森林は伐採され見渡す限り続く、砂糖プランテーションの畑 写真 検見崎 誠 
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ドードーは、何故、絶滅したのか
 上の写真を見てください、そこに答えがあります。見渡す限りのサトウキビ畑で、自動散水装置があちこちにあり散水しています。これがドードーの生息域を奪った大規模な「サトウキビのプランテーション」です。今も昔もサトウキビから砂糖は作られています。

砂糖は十字軍がヨーロッパに持ち帰りました。当時は「白い金」と言われるほど貴重で、贅沢品として王侯貴族しか味わうことはできませんでした。1291年、十字軍が聖地から撤退すると、砂糖は地中海のキプロスあたりで作られるようになりました。
  砂糖を造るには、大量の薪(まき)が燃料として必要となり、森林は急速に消失していきました。また、過酷な労働のため奴隷が使われました。コンスタンチンノープルが陥落すると、白人奴隷の替わりに黒人奴隷が求められるようになり、ポルトガルがアフリカから奴隷を連れてきました。

ポルトガルの進出
 ポルトガルが香辛料を求めインドに進出すると、その航路上にあった島々がサトウキビ栽培に適している事が分かり、次々とプランテーションが造られました。モーリシャス島にもサトウキビのプランテーションが造られました。森林は伐採され、岩は取り除かれて広いサトウキビの畑に替わりました。切られた木は、薪となり砂糖を造るための燃料となりました。
  高価な木はヨーロッパに送られ家具に使われました。無人だったモーリシャス諸島に、植民地化したインドから労働力として何万にものぼる人が連れてこられました。彼らの住処と、食料としての豚、ペットとしての犬やサル、モルモットが住みつきました。森を奪われ住処を奪われたドードーは、人間の持ち込んだ動物に追われ、ドンドン少なくなる森を求め逃げ回りました。森が少なくなるとドードーは、容易に卵を奪われるようになり個体数を減らしていきました。サトウキビ畑の拡大と森林の消失が繰り返され、上の写真のように森(原生林)は姿を消しました、最後のドードーが何時、何処で死んだのか誰も知りません。

ある人はこう言っています『ドードーの肉がおいしかったなら、食べるために飼われて生き残ったのではないか』と 。西洋の人間上位を示す言葉だと思います。

モーリシャス島の砂糖博物館…英語サイトですが写真でモーリシャス島の砂糖生産の雰囲気が分かります。
   http://www.travelmauritius.info/sugar-museum.html

原生林 屋久島写真 原生林写真
写真は日本の屋久島であるが、モーリシャス島も発見当時は、
このような原生林であったろうと思う
 左写真の拡大表示

イラスト
《ドードーはどのように食べられたか……》
 記録によれば、最初にドードーを食べたのは、1507年頃のポルトガル人である。彼らは島の自生のカメや鳥など、目に入るあらゆるものを食べた。人を見たことがないため逃げることを知らない島の動物は、簡単に殺された。彼らは島を便利な食料の供給地として利用した。ただ、定住はせずに、食料の補給のため航海の途中で立ち寄っていただけらしい。イラスト





〈1611年発行のある航海記によれば……〉
『色は灰色、人呼んで「ものぐさ」または「うんざり」とよばれ、それらは大繁殖しているので、オランダ人は毎日のようにたくさん捕まえて食べた。これにかぎらず、一般 にどの鳥も非常におとなしいので、 彼らはキジバトやその他野生のハトやオウムなどを棒きれでころしたり、手でつ かまえたりた。その際、非常に強力な分厚い鉤状の嘴で脚や腕を噛まれないように注意しなければならなかった』と書いている。

このころのモーリシャス島を訪れる旅行者は、ドードーをみることが慣例になっていたという。ドードーはまだたくさん生息していたのである。ドードーは「塩ずけ、ゆで上げ、薫製」などあらゆる料理法で調理された。また保存食として船にも積み込まれて利用された。おそらくゾウガメと同じように、生きたまま帆船に積み込まれ、生きた食料として利用された。同じようにドードーもいたのだろう。
そのほかに 気ばらしや、娯楽の狩りでも殺された。ひどいことに、現地手当の一つとしてとしてドードーが支給されていたこともあったいう。

『フランソワ・ルガ インド洋への航海と冒険』の紹介、17世紀のロドリゲス島やモーリシャス島の様子など。

《ヒトが持ち込んだ動物達もドードーを食べた…… 》  
1698年頃からオランダ人は、島を植民地として利用した。他の島と同様に囚人の流 刑地としても使用した。家畜の豚、ヤギ、ニワトリまでも持ち込まれた。人と一 緒にネズミまでも島に入り込んだ。その中でも、一番歓迎されなかったのはサルである。

《カニクイザルがドードーの一番の敵か……》
このサルはカニクイザル(Macaca Fascicularis)の種類である。原産地の分布は、 ミャンマー(昔のビルマ)北部からインドシナ半島とマレーシアを経て、フィリ ピンやインドネシアの本土よりのいくつかの島々の生息している。
  サルは、オランダ人かポルトガル人のどちらかが持ちこんだらしい、ペットとして飼っていたものを逃がすか、捨てたりしたのだろう。ポルトガル人がおもに使用していたレユニ オン島が、サルの被害に苦しめられることがなかったところを見ると、カニクイザルを持ち込んだのはオランダ人であろう。カニクイザルはずるがしこく、利口なのでドードーの一番の敵であった。人がドードーを食べ、家畜や動物が卵や雛を食べた。ドードーの巣は地上にあり、卵もただひとつしか生まなかったために急速に個体数を減らしていったのである。

他の記録でも、「ドードーは容赦なく狩られ、50年に渡ってインド洋を旅する人々のきわめて便利な生肉の供給源となった」という資料もある。
 


《ドードーの絶滅と激減したカルバリア・メジャーの話》  

1977年、スタンリー・テンプル(生態学者)が『サイエンス』誌上で論文を発表した

モーリシャス島の高地には、アカテツ科のカルバリア・メジャーと言う植物がありドードーはこの木の果実を食べた。この果実は、桃と同じく内果皮が石のように硬くドードーが食べると胃の中で、果実内部の種子が砂嚢の石ですりつぶされ、切り込みを入れられた状態で体内から排出され地上で発芽した』という。このためドードーの絶滅により、発芽のプロセスを失ったカルバリア・メジャー は、繁殖出来ずに急速に絶滅への道を辿ったという。

1973年にはモーリシャス 島で、わずか13本しか残っていないと記載がある。この論文はながらく本当かもしれないと信じられていた。しかし、スタンリー・テンプルの説に反対する説もある。ドードーがその原因ではないという。

人間が移住する前のモーリシャス島の自然に注意する必要がある。モーリシャス島固有の生態系には、4種類のオウムがいた。すでにその内の3種類(Brad-billed Parrot/Blue Parrot/Grey Parrot)が絶滅しているが、彼らに関わりがあるという。
 現在その中で、知られている 一番大きなインコであるモーリシャスインコ(Brad-billed Parrot)は、果実をその鋭い嘴で食べた。 また激減している草食性コウモリもその果実を食べた。この2種類の果食動物から種子を守るために、樹木は硬い内果皮を持ったのだという、なぜならば樹木は、果食動物に食べられて排泄物と共に種をまき散らすことを目的としている。そのために、種までもかみ砕かれてしまっては繁殖できない。その結果、極端に硬い内果皮に発達したのではないか。長い閉じられた生態系の中で適応するために、このような進化を遂げることがある。一般に島の植物は、硬い内果皮を持つことが 多いと植物学者により報告されている。

ドードーの絶滅とカルバリア・メジャー の激減を結びつけることは良くできた話であるが、問題の本質を正しく捕らえてはいない。どちらの説を採るにしろ、これからの長い間の観察が必要である。 その他のーリシャスインコ のサイト

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