サトウキビ畑を造るため森は開拓されドードーは住処を失った

2007.02.15 写真 モーリシャス島の風景、撮影・検見崎 誠氏

《砂糖とサトウキビプランテーション……》

ポルトガル人が始めた森林伐採により、住みかを失ったモーリシャス島のドードーは、徐々に絶滅に向かいました。島に鬱蒼とした森林はなくなり、上の写真のようにサトウキビの畑が造られました。見渡す限り平らなサトウキビ畑に風景が一変したのです。

砂糖はインドが始まりと言われています、アレキサンダー大王が東征で持ち帰り、中近東(ペルシャ)に伝わったと言われています。また別の説では、原産はニューギニアの南部で自生していた種がマーレーシアーからインドへ伝わったと言う。
  「Sugar」はアラビア語の「スッカル」が語源です。それから中国に伝わり、日本には、奈良時代には遣唐使が持ち帰り大仏に献上されました。貴重な薬品として「蔗糖(しょとう)」の名で知られています。
(正倉院に保存された、大仏に献上した薬の目録「種々薬帖(しゅじゅやくちょう)」にも、砂糖を意味する「蔗糖」の記載がある。)

ヨーロッパには十字軍が持ち帰りました、日本と同じように「薬」として色々な病気の治療に使われました。香料の一種として考えられ、大変高価なため「白い黄金」と言われ王侯貴族しか買うことが出来ませんでした。16世紀から17世紀にかけてヨーロッパを中心に、
庶民の間で嗜好品のコーヒーを飲む時、砂糖を入れる習慣が広まると砂糖の需要が一気に高まりました。

イスラム教徒が砂糖の栽培をヨーロッパに伝えると、まず地中海のキプロスあたりでサトウキビの生産が始まりました。しかし、気候の適した広い土地と労働力を必要とすることから思うように生産されませんでした。次に砂糖生産が始まったのは、気候の温暖な島でした。

大航海時代
 ポルトガルが先鞭をつけた大航海時代です、1532年、ブラジルにサトウキビの苗がポルトガル人マルチン・アフォンソ・デ・ソウデにより持ち込まれました。プランテーションの始まりです。インド洋からブラジルへ、ブラジルのプランテーションが森林の伐採で疲弊すると、次に目を付けられたのは、西インド諸島のカリブ海の島々です。没落したポルトガルに替わり、イギリス、オランダ、フランスがサトウキビプランテーションを造りました。ヨーロッパに近く労働力も豊富にあったからです。

《何故、プランテーションは造られたのか……》
 南アメリカの金の略奪に始まり、それらが下火になると「砂糖」に向かいました。砂糖造りは大量の労働力を必要とします、何故なら収穫から72時間前後で糖度が半減してしまうため処理を急ぐ必要があったのです。作り方が分かり、土地と労働力があれば莫大な富(「白い金」と言われた)を得ることが出来ためプランテーションが造られました。
 当時のポルトガルは、人口わずか110万ほどで、その中から労働力をさくことが出来ません。そこで目をつけたのがアフリカの黒人達で、サトウキビ生産のため連れてきたのが奴隷の始まりです。ポルトガルが没落すると他の国(オランダ、フランス、イギリス)がこのシステムを引き継ぎ、より効率よく生産しました。


モーリシャス島・砂糖の歴史》

ポルトガルが島を発見
 ポルトガルが最初にモーリシャス島
を発見したが使うことはありませんでした、時々、航海の中継基地としたようです。また、ロドリゲス島は知らなかったという説もあります。(文章となった発見の証拠がないため、モーリシャス島の発見はオランダとなった。)ポルトガルはアフリカ沿岸に中継基地を持っていたため、無理をしてインド洋を横切る航路をとる必要がなかったためです。

オランダの植民地(1639〜1710年)
 オランダは、アフリカ沿岸に中継地を持たないため大胆なインド洋横断航路をとった。その途中で、モーリシャス島を発見したのである。1598年、
オランダは島の領有権を宣言した、1638年まで無人島としておいたが、1639年から砂糖の苗木(1639本)を持ち込み島の開拓を始める、それから57年後、1696年に初めて砂糖が出来るようになる。しかし、オランダの砂糖生産はうまく行きませんでした。それより島にある「コクタン」などの金になる木をヨーロッパに持ち出すことに熱心でした。彼らより砂糖プランテーションに積極的に乗り出したのは、次のフランスとイギリスでした。

フランスの植民地( 1715〜1810年)
 オランダから島の領有権がフランスに移ると、隣のレユニオン島と共に、大規模なサトウキビのプランテーションを推し進めました。1755年頃、60の砂糖工場とサトウキビ畑は4220ヘクタールに増えました。最盛期には、60の砂糖工場から3000トンの砂糖が作られました。しかし、奴隷の食料などを作るため1000エーカーを越える畑が別の作物を作りました


イギリスの植民地(1810〜1968年)
 1814年のナポレオン戦争でイギリスが勝利すると領有権が移り、名前もブルボン島から現在のモーリシャス島に変えました。イギリスにより大規模にプランテーションは広げられ1820年までに106の砂糖工場が10800トンの砂糖を生産した、10.975エーカーがプランテーションとなる。
  産業革命による蒸気で動く機械(1822年)も作られました。1834年、植民地化したインドから労働力を輸入、最終的には20万人(推定)ほどのインド人が連れてこられたと言われています。1858年、259の砂糖工場、130.000トンの生産量、46.430エーカーにプランテーションが拡大する。1893年、島に蒸気機関車が導入され、サトウキビ運搬用の鉄道が作られる。途中ではマラリヤやサイクロン(台風)で生産量も落ちたが、あらゆる手を打ち生産量は増えていった。イギリスのリバプールはヨーロッパ最大の奴隷貿易港でした。一説では、ここで生み出された富がイギリス産業革命を生んだと言われています。

モーリシャス島の独立(1968年)
1973年の砂糖の生産量は、砂糖工場が21にもかかわらず718.464トンである。上記写真のように散水も自動化されたが、広大な畑に水をまく作業は、人力に頼っていたときの労働がいかに過酷で、大人数が必要であるかを教えてくれる。

コロンブスがアメリカ大陸を発見(その後の砂糖プランテーション
アフリカから、労働力として奴隷が商品化して大量に売られていきました。最初は西インド諸島で、砂糖のプランテーションの奴隷として、アフリカから帆船で連れて行かれました。特に有名な奴隷貿易の拠点は、コートジボワール(象牙海岸)、ガーナ(黄金海岸)などである。
最初、ブラジルなどの原地人が非協力的であるため、アフリカから黒人を連れてきたのが、ブラジル北東部に砂糖プランテーションを造ったポルトガルです。


昔のイラスト何故、砂糖プランテーションは多くの労働力を必要とするのか。(右の写真)

砂糖キビの栽培には広大な農場を必要とする。刈り取ったあと発酵しないように「しぼり汁」から砂糖、糖蜜(とうみつ)、ラム酒を造る。工程には、濃縮・浄化・結晶化の手作業があった。このひとつひとつの作業に奴隷労働を振り分けた。女や子供には簡単な作業を、男達にはきつい労働力を当てたのである。そのために効率よい作業をする「ギャングシステム(集団チーム制)」をつくりあげた。
朝早くから夜7時頃まで作業をさせた。15世紀にブラジルやカリブ海諸島で発達したサトウキビ栽培は、16世紀になると、より植民地化が進み砂糖は重要な貿易品となった。

  写真子供達右の写真はモーリシャスの子供達。
(撮影・検見崎 誠氏)
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