日本における香辛料について……

 日本では古代から、すべての香料は輸入であった。記録によればどうやら7世紀からである。中国から輸入されたもので、仏教関連としてであった。
文献によれば、日本の香木伝来は推古天皇三年(595年)に沈香木が淡路島に漂着したことに始まるという。
 香料は植物性の物が多く、動物性は麝香、シベット(霊猫香)、アンバリーグ(竜ぜん香)だけである。では、どのように使用されたかというと、中国にならった焚香料だけである。字がしめすとおり『香をたいて匂いを楽しむ』のである。

ボタン―焚香料について―
 『この焚香料の使用では、沈香木を中心に諸種の香料をおのおの適当料に配剤し、梅肉 や蜜などを加え、丸薬ようの煉香(ねりこう)にして焚いた薫物、あるいはたきものという物がある』。それから今ひとつ、沈香木一つを取り上げ、これを焚いて幽玄な匂いを 聞くという香道という遊びがある。香道の元祖は、佐々木道誉(1305-73年)であるという、彼は南北朝時代の武将で闘茶、連歌をよくし、茶道の成立に貢献、バサラ大名とも言われた。

ボタン―香道について―
 16世紀から17世紀の南蛮時代になると、沈香木だけを焚く香道が主体となった 『一本の沈香のなかに、あらゆる万象の匂いを寓意するものとして、この寓意したものから、微妙な匂いの種類の相を聞き出し、そして知ろうというのである』。

ボタン―香木の種類と産地―
伽羅木はベトナムのチャンバから出る最高の沈香木  
羅国はタイのロフリ地方の沈香木  
真南蛮はタイ全体のもの  
真那賀はマレイ半島のマラッカのもの  
蘇門答刺はスマトラ島のもの  
佐曽羅はよくわからない  参考(『香料の道』 山田憲太郎著 中公親書 1977年)
  

アイコン 《徳川家康は香料マニアであった》

 家康は沈香(じんこう)が好きだった。特に伽羅木の入手には熱心で英国のリチャード・ウィッカムによれば、駿府の家康から注文があり、時々莫大な利益を上げたという。それらを求める手紙も残されている。
また、東南アジアと交易があったので大金を出して沈香を手に入れていたらしい。 家康が生きていたら鎖国政策もためらったのではないか?

ボタン『徳川家康の遺産の中には、南方の物資として、生糸、織物、伽羅が目立って多く、伽羅は27貫、沈降は50貫あったと伝えられている。』 (「香料博物事典」山田憲太郎著 (株)同朋社 1979年)
 
  彼は薬が好きで自分で漢方薬を作っていた、それは戦国時代の暗殺を警戒してのこともあろうが、それだけでなく学問に対する好奇心が旺盛であったのだろう 。
信長は明智光秀に命じて家康を接待したときも、家康のために大金で沈香を手に入れていた。香りを楽しむためか、食用に使用としたのか定かではない。有名な「本能寺の変」(1582年)の直前である。
 沈香は、暗褐色の含油樹脂を含み、水より重い。木の小穴に黒色芳香性の樹脂が詰まっており、火に入れると特有の甘い香りがして燃える。
東大寺正倉院には「蘭 奢待(らんじゃたい)』と呼ばれる最高級の香木がある。一説には、弘法大師が中国から持ち帰ったものと言われている。 『香りと文明』 奥田治著 講談社 1986年


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