タイトル
マルコポーロ《マルコ・ポーロが世界に与えた影響》
     (Marco Polo 1250-1324年)ベネチア人

マルコポーロが東方へ旅立つまで……序文から


 1298年に書かれたといわれる『東方見聞録』には、マルコポーロが旅立つまでのいきさつを書いた短い序文がある。それによると、マルコポーロの父親ニッコロと叔父のマッフェオは、1260年にコンスタンチノープルから黒海を渡り東方へ交易に向かった。交易は順調であったが、1261年から2年間続いたモンゴルのハーン同士の戦乱に巻き込まれてコンスタンチノープルに戻れなくなってしまった。
二人は戦乱を避けて東へとすすみ、とうとうカラコルムにたどり着いた。ここはモンゴル帝国の首都であり、偉大なハーンであるフビライが治める都であった。フビライはキリスト教に興味を持ち、二人のベネチア人に「キリスト教に精通している賢者100人を送ってほしい」「エルサレムのイエス・キリストの聖墓に灯されているランプの聖油を分けてほしい」と言う二つの依頼をしたためたローマ教皇への手紙を届けることを依頼した。
マルコポーロ
二人は1271年にヴェネチアに戻ったが、約束の100人賢者の派遣はローマ教皇が空位のため果たせず、わずか17才の息子マルコポーロを連れてカラコルムへ出発した。途中で新教皇グレゴリウス10世が選ばれたため引き返し、2人のドミニコ会士を連れカラコルムを目指して旅たった。途中でドミニコ会士は旅を恐れて逃げ帰ったしまった。


中央アジアを経て1275年に元の大都(現在の北京)にいたる。3年半の辛い旅が終わったのだ。フビライ・ハーンは礼を尽くして彼らを迎えた。特に若いマルコ・ポーロを気に入り、彼を汗の外交官として召し抱えた、彼はその役目を約17年間勤めたという。汗の命令により中国各地を旅行した、この体験がのちに本となった。『東方見聞録』は1271年から1295年にわたるマルコポーロの冒険を記録したものである。
 
1292年、マルコポーロは海路帰国の途につく。1295年にベネチアに帰着。のち戦いでジェノバの捕虜となり、獄中で書いたのが有名な『東方見聞録』である。この書は社会に大きな影響をあたえ、東方へのバイブルとなった
本
〈 汗の外交官、マルコポーロ〉

『マルコ・ポーロは、皇帝が好奇心旺盛で知らない土地の珍しい事柄を知ることが大好きであったため、それらの情報を集めることに努力した。17年もの長いあいだ皇帝に使えた。使節としても重用された。彼の豊富な知識は、このよう経過によって培われたものである。』 (「マルコポーロのゴーストライター」ダニエル・ブアスティン著『大発見』集英社刊より)


〈マルコポーロ達の帰国……1295年〉


1292年、フビライ・ハーンの命令でペルシャのイルハーンに嫁ぐタタール族王女に付き添い、無事に送り届けるためにマルコ・ポーロ達が選ばれた。前回に陸路の旅で失敗しているために、今度は海路が選ばれたからである。
帆船はマレー半島、スマトラ、インドの海岸沿いに航行した。一行は14隻の船に600人の従者と2年分の補給品を積み込んで船出した。3年後、無事にペルシャについたときには600人の従者はわずか18人に減っていた。当時の航海はこのように過酷で命がけの旅であったのである。マルコ・ポーロは陸路で故郷をめざした。1295年の冬にヴェネティアについた。24年ぶりのことである。 

以上の事柄は序文に書かれてあり、わずか12ページしかない、これ以後、物語が始まる。(次のページにつづく

 
艦隊図の写真
当時の汗の艦隊風景、日本に襲来した元寇もこんな感じか。
マルコ・ポーロの帰国の艦隊図 と言われている。
図版は『香料博物事典』 山田憲太郎著(株)同朋舎刊 1979年

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